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舞踏・舞台批評を掲載します 

「2005年12月の舞台評」

 

 

●夕湖、若尾伊佐子、目黒大路「原色の七十年代展舞姫嵯峨+35」@ギャラリー・ルデコ、2005.12.1

 夕湖は小林嵯峨の弟子で新人。若く線が細いがなかなかいい感じに「入って」踊るので、期待できる。実は父親がかつて嵯峨の彗星倶楽部にいたので、親子ニ代で舞踏家ということになる。若尾伊佐子は無音のソロ「サ・カ・ル・マ・ン・ド」を近年続けており、現在嵯峨のもとで学ぶ。静かに延びる身体には何か言葉がある。目黒大路はアスベスト、元藤に学んだが、静かななかから次第に緊張感を高め、激しくなる体が動物的に動く。若手舞踏家のなかでは際立っている。

 

●大野慶人「一心」テアトル・フォンテ、2005.12.2

 観客席から入ってくる大野。ダークスーツに茶色のマフラー、つばひろ帽をかぶっている。舞台に上がると下手手前から上手奥にかかる斜めのライトが当たる。西洋風というか芝居仕立ての導入がラストにつながるのだが、僕にはあまり合わない。大野一雄の衣装を着て踊る場面、初めての挑戦だと思うが、どうだろう。自分の踊りの歴史のワンショットずつを舞台にするという演劇的な発想は、彼個人から出てきたものだろうか。殻を破ろうと挑戦していることはいい。でもできれば、いくつかの音楽で素でシンプルに踊ったら、もっと輝く。

 

●笠井叡『冬の旅』ダンスコロキウム@アサヒアートスクエア、2005.12.3

 モダンダンスのダンサーたちを外部の振付家が振り付けるという松澤慶信による好企画。今回は2世ダンサー、つまり親もダンサーという女性たちを集めて、笠井叡が振り付けた。長方形の舞台を両側から観客が囲む。一方に白い西洋風バスタブとシャワー。そこから時折水が流れるのがアクセント。『冬の旅』一曲で舞台を構成するというコンセプトだが、結果として大成功だ。ダンサーは畦地亜耶加、畦地真奈加、玉内集子、山口華子、横田佳奈子。

 2人ずつ、3人、4人など組み合せで踊る場面、笠井は振付が本当にうまい。舞踏家でありながらダンス、バレエの訓練もし、ヨガなどいろんな身体の可能性を追求したためだろう。オーソドックスにテクニックが見えるところに壊れる動き,崩れる動きなどをさりげなく投入している。ソロも際立つダンサーが2人目にとまった。

http://butoh.air-nifty.com/butoh/2005/12/index.html

 

●加藤淳ソロ@ポレポレ座、2005.12.3

 被爆3世、原因不明で立てない。車椅子でソーシャルダンスをしているときに、倒れてその場で踊ったことがきっかけで、ソロで踊るようになった。這う踊り、手だけで移動する動きなど、濃密な存在が観客に突きつけられる。しかしそれ以上に表現として立っているかといえば、それはちょっと残念だ。

 

●解体社「夢の体制」国際交流基金フォーラム、2005.12.4

 海外でのワークショップによる外国人を舞台に載せて、抽象性を出そうとした。冒頭、舞台で淡々と巨大なパイプの台を組み立てる場面は印象的。オペラを歌う女性など、多様なキャラを使おうとしたがちょっとバラバラで、そのなかで、これまでの強い身体性が立たなかった。

 

●モリーン・フリーンヒル、in「コウソクインスタレーション」タナトス6、2005.12.4

 八畳の日本間に蚊帳がつるされ、そのなかで目隠しされた外国人女性が椅子に座っているという、コウソクによる拘束的なイメージ。モリーンは以前に長く大野一雄に師事していた米国籍の女性舞踊家。初めての会ったインスタレーションのなかで、静かに自分の個性を出し始めた。蚊帳のなかでの動きは4大に強く存在感を強調し始める。緩やか、静かな動きだが惹き付ける力がある。途中でバイオリンの大澤史郎が絡むといい雰囲気が生まれる。

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▼森下真樹ダンスショウ「Aプロ」アゴラ劇場、2005.12.8

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●種子田郷、JOU、ボヴェ太郎、『抱擁する大気』アップリンク、2005.12.16

 音楽家種子田郷を中心としたコラボレーション。楽器ではなくマックで音楽を流す。ただ自然のものを使って鳴らした音を取り込んでつくる音は、ノイズ感覚だが,独特のテンションがあって面白い。JOUは伸びやかなダンサーだが、冒頭の股割りから壁にそって体を傾げて動いていくところ、ここがかなりいい。暗い照明のなかでうごめく姿は独特のものがある。ボヴェ太郎は黒い長いコートのような衣装で踊るが、その動きは独自の柔らかさがある。狭い空間でもその柔らかな動きは魅力的だった。映像は当初波の合成でよくあるイメージだったが,映像が縦に流れるあたりからかなり惹きつけるものだった。種子田の音は抽象性と生的ところが重なっていて、ダンサーと映像という組み合わせでは、お互いに干渉しすぎず、かといって「音楽と舞踊」という定式ではない何かを生み出す可能性が感じられる。

 

●4RUDE「罪と罰」武蔵野芸能劇場、2005.12.17

 ク・ナウカを退団した稲川光が立ち上げた劇団で、江口真琴、藤本康弘などク・ナウカの役者などが出演、ドストエフスキーの『罪と罰』を上演した。

 冒頭暗闇に浮かび上がる異形の人々、2メートルの手を持ち顔を隠した人々が物語を回す、コロスのような役割。背景に蜘蛛の巣、梯子などと装置、設定はシンプルながらなかなか巧み。洋服ダンスをラスコーリニコフの部屋に見たてて、そこから出入りする人々などの演出的工夫が面白い。台詞・演技も皆手馴れている。ただストレートに主人公の苦悩を描いていることで、インパクトは薄れた。音楽の使い方、盛り上げ方も独特のセンスがあるし、作り方もうまいのだが、素朴な苦悩は僕たちにはリアリティが薄い。キリスト教が背景にない僕たちに「罪と罰」は、小説を読んでその背景を含めて苦悩に共感すれば、ある程度感じとれるが、芝居では難しい。結末をもっとよじって、「いま僕たちにとっての罪と罰」に合うようなものにする必要があるのではないか。

 

●ヴェロニク・ケイ「focus」横浜赤レンガ倉庫、2005.12.17

 手前にスクリーンがあって、そこに映像が移し出され,フランス人役者によってキャパの伝記的な話が語られる。映像もキャパのものと、撮影されたダンサーやパリのキャパの住まい、連合軍が上陸したノルマンディの風景など。これによりキャパを知らなくてもある程度わかるように作ってある。

 そしてスクリーンが外されると、広い空間の奥にスクリーン、撮影用の反射傘スタンドがいくつも並ぶ。そsれを移動して,男女のダンサーが背中にキャパと、恋人のゲルダという文字をつけて、撮影するような踊りをする。そして引き続き伝記が語られる。

 東野祥子は恋人役だが、あまり自由ではない印象。被写体のスペイン戦線の兵士を演じながら,狭い板の上でソロを踊る三浦宏之は、与えられた制限を十分生きている感じだった。

 

▼境野ひろみソロ@神楽坂ディプラッツ、2005.12.6

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●松山バレエ「胡桃割人形」ゆうぽうとホール、2005.12.21

 松山の胡桃割は本当に豪華。美術、セットが素晴らしいし、出演者も多く,充実している。森下洋子、ジュテ(跳躍)の場面などを極力なくして、シンプルに踊るがちょっと苦しそうだ。テレビで草刈民代が「バレエってなんですか」ときかれて、「バレエは辛い」と答えたのが印象的。動きの少ない静かな15分くらいのソロを委嘱して作って,本公演の前に森下が踊ったらどうだろうか。

 

●東京シティバレエ「胡桃割人形」ティアラこうとう、2005.12.23

 クリスマスがテーマのバレエ作品なので、この時期胡桃割の上演は日本のバレエ団の伝統のようなもの。子どもにもわかりやすいために、バレエ人口増加のためにも必要なのだろう。クララと金平糖の位置付けが,踊らせるバレリーナによって変化しているのも、面白い。もちろん版違いもあるのだが。

 

 

●長岡ゆり「満開の桜の下」タイニーアリス、2005.12.23

 再演ということだが、冒頭静かに登場する長岡がいい。静かな緊張に美しさが立ちあがってくる。そして若い宇田川正治が倒れ伏すなか、正朔は強い存在感,おどろおどろしさを見せる。長岡はあまり舞踏的ではないのだが、この三人というコンビネーションはなかなかいいと思う。

 

●スパークリング21@STスポット、2005.12.24

 ペピン設計の石神夏希作演出で、フランケンズの出演する『新聞のすみっこに載って る小説』は、夫婦とセールスマンという関係を描いた短い物語。日常会話のなかの「よじれ」を巧みにとり出してみせた。

 鈴木ユキオによる「dulcinea」は、鈴木、安次嶺菜緒、横山良平によるダンス。鈴木が冒頭舞台のモノの位置を動かしたりしながらダンスが始まっていく。暗転とその後の変化は巧みで、これは鈴木のセンスが光る。しかしなんといっても、3メートルほどの板を使って倒れる鈴木の音とその衝撃が強い。自虐的とでもいいたくなるほどに倒れる鈴木は、いまやりたいことが「ここ」にあることを感じさせる。ディプラッツでの金魚のとき、そして横浜トリエンナーレなど、かなり自分を痛めるような過激なソロを踊る。室伏の影響はもちろんだが、そこから自分の世界を構築しようと戦っているという印象が強い。横山はその一歩手前で、しかしうつぶせで背を見せた場面ではかなり強さを見せた。安次嶺は人形振りが中心のコミカルな感じだが,彼女も同じ「倒れ」をやってもいいかもしれない。そして一度静かで緩やかなソロを入れるとアクセントになるかもしれない。

 

●NBAバレエ「胡桃割人形」メルパルク、2005.12.24

 金平糖の客演マリア・アイフワルドのグラン・パ・ド・ドゥはさすがに見せる。伸びやかな動き、手先足先の繊細さとダイナミズムなど、やはりロシアのバレリーナに学ぶところは大きいだろう。相手役のセルゲイ・サボチェンコも着地時の静かさはなかなかな技術。いい跳躍もあった。クララを演じた谷田奈々もいい。田熊弓子はもう少し長いパートがほしかった。

 

●金森穣「Noism5」新国立中劇場、2005.12.25

 いいダンサー、清家や辻本などが抜けたNoismはどうなるのかと思ったが、とってもいい作品に仕上がった。金森は出ずに男女五人ずつのダンサーを徹底的に振り付けている。

 冒頭薄闇のなかにベージュのタイツの女性たちが人形のように倒れている。中心に黒いスーツの男が椅子に座る。暗転すると黒い同じ衣装の男性たちが女性に絡んで登場している。が動かない。そして暗転で情景が変わっていく。この光と闇の使い方は本当に秀逸だ。そして男性たちが人形的な女性たちを少しずつ動かしていき舞台が展開する。

 このように基本的に女性は人形、レプリカントのような存在で,男が黒子的に動かしたり,男と女の関係で性的に絡むような場面も作られる。しかし生っぽくなく、適度な抽象性に体が浮かび上がる。女性はショートカットをピッタリとなでつけて、個性を消している。ダンスも実に均質でよく訓練された動き。周囲の三方に黒い幕が降りており、裾を持ち上げてダンサーが入ったり出たりするときに、重い幕が「バチッ」という強い音を立てて揺らぐことも効果として巧みに使う。音楽はベトナムの作曲家というが、これもカッコよく現代音楽的でもあり、ロック的というかポップな感覚もある。

 この作品は実は前のNomadic Project3で、井関佐和子に金森が振り付けた作品が原型だろう。ここまで人形的ではなかなったが、かっちりとした動きで非常に魅力的なソロだった。それを元に男女という組み合せでこの支配・被支配関係を作り出した。そしてそれは途中から女性の反乱によって変化していく。金森自身は踊らないが、踊ると際立って動きが違うので,この均質感、統一感は出せなかったろう。いい判断だった。

 この振付の魅力は魅力として,そこでダンサーの個性をどう示すか,それはまた別の作品となるのだろう。ともかく金森は一つの自分の徹底した振付というスタイルをこのまま貫くことで、いい作品を生み出すだろう。キリヤンやフォーサイスが

 

●大駱駝艦 壺中天「2001年壺中の旅」新国立小劇場、2005.12.25

 向雲太郎は中堅どころだが、積極的に振付・演出を行っている。これは2001年に作った作品の再演だが,米国公演も果たしており、秀作だ。冒頭でいきなり白塗りの男たちが立ち並び上から各色の紙吹雪が降り注ぐ。舞台の最後を冒頭に持ってくる逆転は,その後の「ジャーオエデッセイ」でも使っている。そして白塗りの男たちが座りこみ、声を出しだすと笑いがまきおこる。このノリがいい。またソーセージの男根を切る「指詰め」を展開し、するとチンチンを出した一人がフラフラ登場する。このへんからいいノリになってくる。丸いおぜんで踊る場面はちょっと冗長だが、このモチーフなど、シンプルな使い方でありながら、楽しませる要素が多い。音楽の使い方も緩急を考えており、うまい。もっと新しい作品がドンドン作れるのではないかと思う。

 

●藤井真理@テルプシコール、2005.12.27

 大森政秀の天狼星堂にいた藤井のソロ。冒頭で舞台をグルグル回る。これは手がなくなったインプロ系のソロに多いので,やめたほうがいい。ところが壁を向いて少しずつズルっと横移動を始めると、これはなかなか惹きつける。舞踏的というよりコンテンポラリーダンスの感覚にも近い。そうして上手で観客席を向いて動くのだが,ところどころにためらいがある。それでも舞台前にきて、右手を長く横に差し出して体を傾けて厳しい表情になったところは、凄くカッコイイと思った。しかし意識が切れはじめ,途中でやめた感じ。さらに動きを作るのだが,持続しない。意識が離れるのを技法としているのかとも思ったが,どうもそうでもないようだ。

 舞台上手半ばに黄色い毛糸玉がぶら下がり糸が垂れている。これだけの美術だが,上手奥からの光で床に少し影ができて、とてもいい。その毛糸を引っ張り出すところがあるが、できればここで糸がほぐれて長く糸だらけになっていくと、もう少し変化がついたろう。後半で「ハレルヤ」の入るキレイな曲がかかるが、これに合わせてユルユル踊ってしまうところに、藤井の甘さが出た。

 

●ピンク「羊たちの遊覧船」ペッパーアートギャラリー、2005.12.28

 東京女子体育大学出身の三人組。黒沢美香の美香ダンサーズでも活動。吾妻橋ダンスクロッシングスでは砂山典子によるスナッチーのダンサーズとして登場。

 コンクリ打ちっぱなしの狭い銀座のギャラリーに20名以上が詰まった。入口から音楽とともに一人づつ登場し、それぞれ踊り始める。濃い色の長さの違うパンツ、上は淡い女の子カラー。絡むというほどには絡まずに、音楽はあまりフェイドアウトしない。曲で場面が変わるが照明も凝らない。というかギャラリーのためあまり凝れない。床もコンクリだがおじずに転がったりといった場面はなかなか。井上陽水「リバーサイドホテル」で音楽的にも盛りあがって,暗転すると衣装が投げ込まれて,白い体操着にショートパンツやミニで、アイドルノリの曲がかかり、それに合わせて踊ったり歌ったり。歌も彼女たちが吹きこんだオリジナルというが、アイドルパロディ感覚がピッタリ。楽しく見れるが、個々の動き,展開はもう少し考えて振り付けたほうがいい。特にソロパートなどはインプロが多いようだが、振付度を高めて一度固めて,それを崩したらどうかなと思った。

 だが絡まないなあと思っていたら,最後にちょっと三人が重なったり,2人が争う動きが出てきても盛りあがる。

 

●ケイ・タケイ「檜健次追悼」シアターカイ、2005.12.29

 檜健次はいまあまり省みられることのない舞踊家かもしれない。しかしその功績は決して小さくない。

 1908年に高松で生まれ、母親が日舞、地唄舞の名手だったことから六歳の六月六日かた手ほどきを受け、大阪に出て研鑚をつぎ、今の大阪音大に学ぶ。文部省の派遣で3年間米国に学んだことが転機となる。デニス・ショーンの舞踊団のデニスのところで交換留学の形で学ぶが、ハワイの日系社会で踊ったことがきっかけで、米国公演を行うことになる。合わせて五十ヵ所以上で公演を行うが、持っていった日舞系の創作以外に新しい作品の必要に迫られたことから、ダンスについて一つの見識を得る。それは、踊れないという悩みがあれば、それを踊ればいいということだ。開き直りともいえるこのスタンスは、実は踊りについての根本的な問いかけにつながるものだった。踊ることはモチーフではなく、イメージでもなく、自分自身、そのものでいいということだ。その姿勢が後年多くの人を惹きつけた。

 ケイ・タケイは檜の最後のほうの弟子だが、3年間師事した。檜の妻は日舞の藤間喜与恵だったこともあり、行儀作法などを非常に厳しく教えられたという。ただ檜に自由に踊ること,創作の自由さを教えられたという。

 

2006年9月28日

 

「2005年10月の舞台評」

◆2005年10月の舞台評

 ミニ批評に掲載できなかったので、こちらに掲載します。

 

●東京コンペ@新丸ビル、2005.10.2

 森下真樹のソロは一番受けた。かなりよかったが、まことクラブの舞台はコンセプチュアルな要素もあって、こちらが大賞となった。M-Laboratoryは暗いコンドルズという感じで、さらなる可能性を感じさせた。

 

●黒いチューリップ@新国立劇場、2005.10.7

 中野敦之が率いる唐ゼミが新国立劇場の小劇場を唐空間に変えた。敢えて桟敷のある劇場を中に作って、唐の舞台に近づけた。以前に赤レンガ倉庫では唐組がテントを屋内に貼ったことがあるので、同じことはしたくなかったのか。最後に手前の建物の上のような空間も使って、とても楽しめる舞台となった。役者も決して大学卒業生と在籍生とは思えない、唐の指導、唐の舞台にどっぷり嵌った雰囲気だ。特に女優の椎野裕美子と禿恵は以前から注目しているが、今回も素晴らしかった。男優も唐的「怪優」の雰囲気を見せる新堀航が期待させる。少年をやった女性古川望もいい。

 

●ダンスシード@ブリックワン、2005.10.10

 神村恵のソロは、布を投げてそれとともに倒れるというリフレインが印象的。決してうまくいっていないのだが、行為と踊りというところがつながる部分という感じだ。

 譱戝大輔はビニール袋、コーラを持ち込んで、しかしシンプルに動く。みっともない姿を露呈しながら、ストレートにその体を出すやり方には期待が持てる。

 

●ダンスセレクション2005@オリベホール、2005.10.11

 シンガポールの女性Joavien Ng Bong NAは、小さいビデオを上手に置き、そこに映される映像は彼女のアップと部分の暗い姿。小さいライトを持って部分しか見えない状態で踊る。よくある発想だが、光に当たった腕など、時折オヤと思わせる動き。照明が四角く当たって踊る動きも、特に床に倒れたりなどして踊るところにかなりの個性がある。息遣いを強調して激しい動きを限られた光のなかで展開するところに技術も見えた。

 日本語で喋りながら舞台を走って回る男Chuo-Tai Sunは次第にたどたどしい言葉になり、日本人でないことがわかる。強い身体で比較的シンプルな踊りだが、照明と戯れるなど、コミカルな面も見せて楽しませた。

 マスクを頭の後につけ女装して背中向きを前のように思わせて踊る。目新しいアイデアではないが、その顔がどうみても笠井叡。マスクを前に置いて踊りだすと若々しい息子、笠井端丈。動きは明確でダイナミック、時折笠井叡の動きが垣間見えるのが面白い。屈託のなさそうなこのダンスが本当の意味で立つことを期待したい。

 Yeon-soo Chung。中央のサスペンションの元で踊る上半身裸の身体。コントラストが美しい。するとそれに円形の照明が重なり、次に長方形と、限られた1m×2mほどの光のなかで踊りが展開する。その光の長方形がつながっていき、移動しながら踊りが続くのだが、場所、光が移動するごとに動き、踊りを変えているところが素晴らしい。単に光の効果だけでなく、その変化を踊りにしている。そしてそれが最後にすべて当たるとモザイクのような照明のコンポジションが床に描かれ、その上で踊る。ただこの部分の動きはもっと癖のある動きか、それまでとは対照的に早い動きをすればもっと際立ったと思う。

 最後のアンディ・ウォンは体も動きルックスもいいのだが、それを「どうだ」と見せつけるようなダンスで食傷した。

 

●玉井康成ソロ「憂顔素躍 ドン・キホーテ」@草月ホール、2005.10.13

 玉井康成というのはいいダンサーだ。自分の踊りを作ろうと懸命になっている。おそらくできているのだろう。だがそれが私たちに伝わってきたところは、この舞台の一部にすぎなかった。助演の男性ダンサーと背中合わせで登場し、肩車され、背中に乗って歩む姿は弱弱しい。蓋をした井戸の上で腹這いで宙を舞う。そしてその上に座る。すると威厳が表れ、堂々と天に向かって立ちあがる姿は美しい。しかし地上に降り立つとあくまでドンキホーテ。それを意識しすぎているために、輝かない。「いや輝かなくてもいい」と玉井はいうかもしれない。しかし駄目なドンキホーテを描くためには、輝く部分が必要なのだ。鉄板で埋葬される場面、最後のタンゴで乱舞する場面など惹かれる部分は多かった。しかし白州でみた玉井が、淡々と畦道を歩く姿、林の中で談笑する姿に、自然な舞踏を見た。あの自然な玉井がこの舞台に立っていたら、もっと僕たちを惹きつけていたように思う。

 

●菊地びよソロ@ちめんのなかや、2005.10.14

 中野区沼袋の住宅街にある「ちめんのなかや」というギャラリーバー。地下に入ると茶色の空間に大きな水盤。古代とも新しいともとれる衣装で後ろ向きに登場して回転し、踊り水盤に昇る。会場に合った雰囲気。と2階に案内されると明るい直径2メートル近い丸窓のある部屋。丸型屋根に白い空間の窓に張りついて踊りだす。開放的な雰囲気に合って自由な踊りだった。

 

●ダンスセレクション2005@オリベホール、2005.10.14

・nest and collaborations「Vanishing Points 30」

 タブラにエレキギター、デジタル音などが全体に流れ、背景のスクリーンに白い線が映される。映像は床から背景を通してモノクロの構成的なデザイン。ダンサーたちその光と影を体に受けながら、時に揃い、時にインプロっぽく踊る。森下真樹はそのなかで銃を撃つ動きなど、ダンスを外した演劇的身振り。さらにソロパートで独特の喋りから身振りというダンスが出て「サビ」を果たす。動きとしては、長身の女性ダンサーのダイナミズムが目立った。

・たかぎまゆ「独り舞踏会」

 ギターケースを運んできて金髪に白い帽子で踊る姿はいつもの「たかぎまゆ」。ところが衣装を脱ぎ始め、ギターケースからクレンジングを出して化粧を落とす。素顔になって、黒い透けるタイツドレスで、ちょっとエロティックに踊る。そしてギターケースに腰かけてタバコのポーズ。ダンス界では定着した派手な金髪、銀髪のバービー的「たかぎまゆ」を一度脱ぎ捨てるという行為が新しい展開を生みだした。

・内田香 Roussewalts「彼と彼女のredな味」

 大勢の赤い衣装の男女が繰り広げるモダンダンス。

 

●ダンスセレクション2005@オリベホール、2005.10.15

・Hong Hye-Jeon/近藤良平「Femme Fatale」

 日韓共同制作という1日。コンドルズと韓国の女性振付家との舞台は、韓国にも上手いダンサーと普通の身体モードのダンサーがいることが面白かった。コンドルズボキャブラリーが中心と見たが、海外でも新しい動きとして、もっと注目されるような気がする。

・Kim Youg-hee「Somewhere」

 韓国の振付家が日本のダンサーたちを振り付けた作品は、原田拓巳の舞踏的な動きがインパクトがある。東雲舞踏の堅田知里がダンス的に豊かな表現を持っていることにひかれた。

・山崎広太「Caused by economy OからAへ」

 韓国のダンサーたちを振り付けた作品。映像をうまく使って全体としては緊張感のある作品に仕上がった。

 

●木佐貫邦子「リンクするソロ」@アゴラ劇場、2005.10.15

 木佐貫とその弟子、大学の教え子たちがソロを繰り広げる前半は、個々の時間が短いがそれぞれが個性を出そうという意欲が伝わる。そして後半はいくつかのグループによる構成。作品を作り出すためのショーイング的だが、みごたえがあった。ダンサーでは大学生の石川勇太に注目した。

 

●小林嵯峨@ダイトウノウケン写真展@美蕾樹、2005.10.19

 ダイトウノウケン写真展は元藤あき子三回忌を兼ねて、かつて撮った元藤やアスベスト館の舞踏家たちの写真による構成。1人ひとりを妖怪に例えて設定したなかで撮った写真は面白い。そしてアスベストに関わった舞踏家たちが踊った。小林嵯峨はシンプルに踊りつつもこの小さい空間にはやはりとてもいい存在感が漂った。

 

●メイプルリーフ・シアター『地にありて静かに』、三百人劇場、2005.10.20

 カナダ人作家の作品。欧州由来の少数派キリスト教の移民村がカナダにはある。地味な黒い衣装を着てドイツ語を話すが、「不戦」の立場を貫き、カナダ政府からの召集にも応じない。この宗派はそれがローマ法王にも認められている。しかし若者は長老たちに反発し、第一次大戦にカナダが参戦するなかで、一人の若者は戦争に行ってしまう。村では若者と老人の対立が高まるが、そこに戦争で人を殺した青年が帰ってきて、自分の誤りを悟ったことを話す。

 戦争の無意味さを根源的に問う作品であり、いまの時代にも有効な部分は多い。しかし翻訳の「新劇」的なモードで上演しているためか、団塊の世代以上の年齢の人が大半を占めていた。同じ翻訳者の作品を流山児が演出したことがあるが、この作品ももう少し新しい演出をして、より多くの若者に観られるような工夫をするといいのではないかと思う。

 ちなみに劇場がもうすぐ廃館になるという。数々の芝居を生み、ロシア・ソ連映画の傑作を上映していたことでも知られる。地の利のいいところに劇場が増えたために、利用者も減ったのだろうが、残念だ。

 

●工藤丈輝・若林淳デュオ@イワトホール、2005.10.21

 正面の扉が開き逆光の中、進み出てくる中腰の工藤丈輝は、小汚い怪人のような雰囲気を化粧で出す。奇妙に暴れる姿に下手にいる斎藤徹のコントラバスが絡む。上手の観客席横から白塗りの若林登場。ゆっくりと踊りながら舞台に上がる。二人のコントラスト、黒と白のみならず、工藤は結構自由な踊りを自分で作る。若林は舞踏的な定型。登場したときは、裸身の若林がたくましく観えたが、工藤が裸身になるとすごい。割れた腹筋と極力絞った体型は、土方を思わせる。絡み出すと若林が女性で工藤が男性とも見えた。しかし次第に二人とも斎藤の音とともに高まる。斎藤はコントラバスを弓や手で弾くのみならず、パーカッシブに叩いたり、笛や器に入れた球でジャラジャラという音を出し、ハルモニウム、つまり小さい鍵盤付手風琴を鳴らすなど、実に多様な音を出す。そして特に弦楽器の醸す和音や低音が、全体に静かに行き渡る。子の前は五井輝の舞台で見たが、そのときよりももっと奔放。二人の踊りは特に床で同じように伏して動くポーズのリフレインがユニゾンで繰り返されるあたりから、立ちあがってきた。やはり床に倒れ、そして立ちあがり踊りを作る動きは、妙に惹きつける。以前のとりふね舞踏舎への客演で知りあったが、二人だけの舞台は初めて。大らくだ艦は若手に自由な活動をさせていないが、中堅というより大番頭的存在の若林が挑戦したことで、もっと多くが新しい活動をしてほしい。

 

●ケースマイケル展@東京都写真美術館、2005.10.22

 ローザス、ケースマイケルの展示は映像が二つと映像によるインスタレーション、そして写真。Aliocha van der Avoartによるソロダンスの映像が面白い。短いソロが暗転し衣装が変わって続くのだが、シンプルな動き、ダンスっぽくない動きから展開したり,ヴァリエーションが豊か。日本人の池田扶美代の映像は顔のアップに語るフランス語が崩れていく。

 ティエリー・ドゥ・メイによるインスタレーション「ヴァイオリン・フェーズ/トップショット」は砂場をつくり、そこにアンヌ・テラサが踊ることで模様を砂に描いていく様子を上から映したもの。スティーヴ・ライヒの音楽で、円形にを十字に動くなど、回転したりしながら踊る姿が面白い。映像の舞台の砂地と同じインスタレーションがリアルにあり、そこに観客は立って見ることができる。砂を歩く感触などインタラクティブな試みだ。

 

●恋どき展@東京都写真美術館、2005.10.22

 珍しいキノコ舞踊団のインスタレーションは小さな稽古部屋の設定。顔出し写真パネルなど、遊びもたくさん。ニブロールは映像と揺れる不安定な床のインスタレーション。そしてコンドルズは段ボールをベースに作った展示。これが楽しい。これまで舞台で使った人形やネタなどがファンを惹きつけるが、チープな手作り感覚は、大学の学園祭ノリで、それが見方によっては作品になっているところはさすが。

 

 

●唐組「カーテン」鬼子母神、2005.10.22

 今回は『電子城2』の改訂版で,大半は見ながら物語を思い出した。テレビゲームなどのネタに果敢に挑戦したときのものだが、やはり唐には電子ネタは似合わない。ヴァーチャルをリアルにするというよりも、唐自体が時代を超え第二次大戦などを浮かび上がらせる、独自のヴァーチャル性をもっているだけに、電子系のヴァーチャルとは重なってしまうのかもしれない。唐の舞台にはコンピュータなどの介在できない究極のヴァーチャルがあるといえば理解されるだろうか。

 

●ダンスシード@ブリックワン、2005.10.23

・荒木志水は身を屈めて登場し毛糸の帽子を被っている。ロシアのマトリョーシカのような感じで頭を床につけて身をよじり倒れる。極力体を屈めて倒しひっくり返ることのリフレインから何かを作ろうとする。型としての踊りではなくものを作るという意欲が表れること、それが重要だ。

・松田多香子のジャズに合わせて身振りを含めたこのダンスは、たぶん50年代くらいから米国であるはず。海外で学んだモダンダンスが米国のテクニックと感情表現というものであれば、それをどう捨てるかが課題。

・岩崎一恵は作りたい意欲とそれを表現できるかというところの狭間にある。他愛ない行為の繰り返しなのだが、そこに自分なりの理由づけをして、それが人に伝わる、あるいは伝わらなくて、見る人が勝手に意味づけてくれる、そういう作品はどうやったらできるのか。それはやる側がその行為、動きについてどこまで突き詰めているかにかかってくる。おそらくは持っているテクニックを抑えるところまでは来ているが、それをするモティベーションがきらめかない。

 

●目黒大路@ダイトノウケン写真展」ギャラリー美蕾樹、2005.10.23

 ダイトウノウケンという元藤あき子の晩年を撮った写真家の個展。かつて目黒が刺青模様を体に描かれて撮られた写真も彼だ。元藤三回忌ということで、言葉から始まった踊りは,上に延び下に縮む天と地の行き来をしながら、体が蜘蛛のように動く。目黒は決して器用な舞踏家ではなく、驚くほどストイックに自分の動きを考えている。ボキャブラリーの少なさ、表現の意味などを模索している。しかしこの身体が眼前で動く力というものは代えがたい魅力があるのだ。

 

●コンドルズ「セカンドインパクト」エッグマン、2005.10.23

 ライブハウスの老舗澁谷エッグマンでのライブ。舞台で通常演奏したりしているトイピアノと立笛にギターなどによるものとは違い、しっかりロックだ。ボーカル勝山康晴、ギターとキーボード石渕聡、ベース近藤良平、サックス山本光二郎にオクダサトシと藤田善宏がバックヴォーカル。演奏をまとめているのはドラマーだ。リズムいいために、しっかりロックしている。曲はツェッペリン風ハードロックとブルーハーツ系Jロックの間。ロックしようというパワーがあっていい。

 

●玉野黄市・アスベスト独欧ツアー報告会、2005.10.23

金野泰史

 ともかく巨体。長髪に肉の詰まったしっかりした身体が倒れ,暴れる場和ーはなかなか見せる。パーカッションにちょっと合いすぎたことを除けば,身体の強さと迫力が十分発揮された舞台だ。

玉野黄市

 日本間の八畳、下手奥の床の間に上から光が当たり,そこに立つ玉野が照らし出される。白くなりかかった長髪に裸身、腰に布のみで、その奇妙な風体の存在感が立ち上がる。上手側の上の棚の襖が開いてそこにネンネコをまとった女性が小さな座敷童にように座っている。玉野は八畳に出てきて踊り出す。抑えた光にヒラヒラさせる腕と手先,六十前の胴体が露呈されている。ネンネコ姿も降りてきて、歪ませた舞踏女性的な表情でゆっくりとうろつく。玉野が舞台に上がるとそれだけで七十年代の舞踏の雰囲気が漂う。米国で長年活動し、欧州から南米までを回り、日本の舞踏を世界に伝えてきた。山海塾のような完成された美ではなく、猥雑さ、混沌を現出する。

 

●黒沢美香「jazzzzzzzzzzz」2005.10.26@慶応大学日吉校

 舞台に仰向けで寝つづける金色の姿の黒沢美香、そこに黒いさまざまなフォーマルっぽい衣装の女性たちが7人、揺れるような動きで登場した、らしい。というのは十分ほど遅れたからだが、しばらくの無音から徐々にリズムボックスのドラム音、薄い音が響き出し、黒い女たちはそれぞれの動きを小さく展開し出す。黒沢は置きあがるが、背後でゆっくりと進み、頭を振り続けるなど、非ダンスで動きをする。さらに奥の下手ではデパートガールのような衣装の三人が下からの照明の前でさまざまなポーズを展開している。この三者のコントラストがいい。手前の黒と次の金、そしてコスプレっぽい奥。しばらくこれが続き、音楽が昔のラテンやダンサブルなものになり、群舞が展開する。黒い女たちの三人がダンス的に動き、しかし残りは相変わらずそれぞれ独自の小さい動きなど。奥のコスプレ組が揃ってジャズダンスっぽく踊り出すが、途中から少しずつ一人一人崩れた動きを作り出す。転がっては倒れたり、ぶつかったりなどと定型を崩す。黒服の四人が退場して、観客席の奥から1列になってショーダンス的に揃って一周して舞台に戻る。黒沢は踊りながら舞台の奥に出て、ガラス張りの屋外で踊り、上ではオブジェが膨らみ出す。戻ってきてたたずみ、いったん音が消える。そして皆赤いリボンを首に結び、ダンサブルに群舞して終る。

 黒沢美香の求めるものは、多様だ。音楽に乗って腰を振りダンスを踊るというものと、抽象的な行為、踊らない、丸太を切る、机を組み立てるなどの美術パフォーマンス的なもの、本来かけ離れたものが共存している。これはダンスの系譜に生まれて踊ってきた、根っからの踊り子的感覚とモダンダンスの型に飽き足らず、挑戦する意識が常に重なっており、それを矛盾なく作ることにためらいがないのだ。この『jazzzzzzzz』はそういったモノを重なり合わせるという作品だ。黒沢の抽象的な動きのみならず、黒い軍団もバラバラかつ統一性がある。多様な発想が舞台に昇る黒沢美香の作品は、ダンスとは何かという問いを私たちに突きつけている。

 

●手塚夏子、たかぎまゆ、中村公美@横浜トリエンナーレ、ナカニワプロジェクト、2005.10.29

 手塚は桟橋の突端の空間に赤いシャツにスカート、靴で立ち、ゆっくりと動く。体の中から痙攣するのか、揺れを体に飲み込んでいくのかわからないが、その波動が伝わってくる。緊張感のある身体が素直に伝わって見ている人間の身体も揺れ,動き始める。四角い空間を斜めにゆっくりと動き、少し曲がって移動していくだけの動きだが,眼を離すとこの体がどこか彼方に行ってしまうような気がしてくる。

 中村公美はビニール紐の塊から紐を摘ぎ出す。桟橋の風になびくことを考えたようだが、その意図は思うようにはならなかった。ただ場所をかえつつ1時間以上淡々と紐を引き出したゆたわせる行為はこの場にふさわしかった。

 たかぎまゆは手塚とのデュオ。紙袋をかぶった手塚と地蔵の被り物をしたたかぎが赤い衣装で桟橋に立つコントラストが凄い。たかぎは得意のポンポンを投げては受けとめるパフォーマンス。だが地蔵の被り物で視野がさえぎられうまくいかない。だからキャッチできると拍手が沸く。棒立ちにした手塚の紙袋に成功すると「正」の字を書いていくなど、楽しいアイデアで間に踊る。三人とも赤い衣装にしようということだけ打ち合わせたというが、それは手塚、まゆともに自分たちのカラーでもある。

 そして手塚はナカニワの約50Mを傘をさしてゆっくりと歩むダンス。青いコンテナに赤い姿が映える。中間にある美術作品の電話ボックスを抜け,行き終えるとそのまま後ずさりで戻っていく。これだけだが手塚の身体はこの広い空間に波動を伝えた。

 最後は三人で屋内の巨大なパイプ製階段の前と上。ジャングルジムのようなこの作品の下で赤い姿はやはり映えた。そして中村とたかぎが下で踊るうちに手塚は階段を静かに昇り消えていった。。

 

●金満里『月下咆哮』@BankART1929、2005.10.29

 この公演については劇団態変の雑誌『IMAJU』に書く

 

●柏木みどり@ヤクルトホール、2005.10.30

 途中からなのでなんともいえないが、モダンダンスというより日舞とモダンを合わせて作った作品だが、いまの若者が求めるところは少ないだろう。

 

2005年12月28日

 

「2005年9月の舞台評」

◆2005年9月の舞台評

 「ミニ批評」に掲載できなかったので、まとめて載せます。

 

●田中泯「森の物語」井の頭公園、2005.9.1

 東京の公園、林のなかでの公演はこれで3年目。見たのは2回目だ。簡易観客席と照明などを設営し、300人近くが集まった。暗転して光が入り始めると暗い色の衣服の人々が手足のないダルマ状の人を抱えてぞろぞろと登場する。彼らを地面に並べ後に控える。しばらくするとダルマたちが転がり、その1人の拘束を解いていく。しゃがんだ姿で大きいパーカー状のもので縛っていたのだった。このダルマのインパクトがこの作品の特徴の一つだ。森の中の手足を失った異形、奇形の者たちが並ぶという暗黒のイメージを作りだした。拘束を解かれた人たちが動きだし、それ以外も静かにそれぞれに動きをつくる。男女、年齢、風体がそれぞれ非常に異なる。それもそのはず集まったのは米国、ロシア、ドイツ、東欧、アジア、そして日本の人々が混ざっている。みな難民のような国籍不明の衣装と雰囲気で混ざり合う。男女もわかりにくい人がいる。十数名。やがて少しずつ人が去っていく。また戻ってきたり、踊りらしきものはなく、しばらく立っていて突然倒れたり、動き回ったり、たぶん振付ではなく自分固有の動きだろう。緊張を自分に課して口からよだれを垂らしたままであったり、さまざまだ。

 やがて数人になると帽子を深く被っていた田中泯が少し踊る。緊張と弛緩、しかし舞踏的というよりはダンスっぽい雰囲気が掠めた。このソロは短く終り、やがて集まってきた人々が再び数人をダルマ状にくるんでいって終る。昨年は大雨のなかで、同様に外国人が多い人々が布団をかついで登場して泥のなか倒れ暴れるというモチーフ、難民、さまよえる人々の移動という印象だった。そして田中泯のソロ、これが続き膝立ちで両手を広げると稲妻が走り、自然の舞台ならではの効果抜群だった。今回は天気だったが、虫の声が強く響くなか、木に仕込んだ水が伝い、いい雰囲気だった。ダルマ以外に難しい着想はなく、シンプルにそれぞれの動きを見せることに徹している舞台は自然のなかで人々を惹きつけた。

 

●菊の会@船堀タワーホール、2005.9.2

 日舞のなかでも創作舞踊に力を入れる畑道代が主宰する会。ドイツ、東欧などの海外公演記念だという。前半は狂言舞踊や古典的な雰囲気だが、後半は完全に創作。ロックっぽい音楽やポピュラー、歌謡曲のようなもので衣装も被りものを含めて趣向を凝らしている。ただ物語性を動き、振りで作るというのは日本舞踊の基本と同じ、その流れである。

 

●タナトス・オープニング・ダンス・アクト、2005.9.3

 自分の企画なので、シンプルな感想を記す。

譱戝大輔

 長靴に赤いスキャンティ姿で倒れ続ける体のパワー。鴨居ぎりぎりに来て暴れるその姿は、男の舞踏らしいこだわりを生に見せつけた。昔の舞踏の持つハチャメチャ感、前衛を追求する意識が垣間見えた。

岡田 智代

 畳のヘリを辿るガラスのコップとそこに入れた氷が小さく鳴る。そこから畳の上、横になったりしつつ踊りが始まる。非常に意欲的な作品でこれからさらに展開するのではないか。

目黒 大路

 シンプルに身体一つで踊ろうという気概がストレートに伝わる舞台。決して器用でない舞踏家ゆえの、身体の密度がこれからどう増していくか、楽しみだ。

JOU

 メイド服のコスプレで扉のガラスの向こうでガラスに文字を書く。難解かと思うと飛び込んで入口にぶら下がり、衣装を脱ぎ捨てていき、ダイナミックに踊る。ボウロを投げたりと自由な精神が何かを打ち破ろうとしている。

小林 嵯峨

 水盤上の蝋燭の光だけで踊るという意識。その姿が床の間に上がり、光をつけたときに浮かび上がる姿はなんとも凄まじく美しい。やはり舞踏の舞姫にふさわしい。

 

●ディディエ・テロン、モノクロームサーカス@2005.9.4

 テロンはフランス・モンプリエ生れ。文学などを大材としたダンスで知られ、この日も自らソロ「ラスコーリニコフの肖像」を踊った。

 薄闇から走り動き出すそのダンスは独特な動き、いわゆるダイナミックというのではないが力強いというか、印象に残る動き。マイム的な重さがあるのだが、マイム的に見えるところは僅か。椅子に座って苦悩の表情を作るところくらいだ。

 ラスコーリニコフとはというようなナレーションがちょっと流れる。『罪と罰』は大半が読まずとも概略を知っているだろう。場面をつくるのではなく、そこで苦悩する彼を描くということで、抽象化された部分が多いのだが、それでも椅子での苦悩などはちょっと具体的。この独自の動きに惹かれるのだが、年齢を経た故の渋さなのか、全体の苦悩的かつ素朴な雰囲気なのか、要因がわからない。短いが人を惹きつける力がある。

 次はテロンがモノクロームサーカスを振り付けた作品。このグループは坂本公成と森裕子子が中心のグループ、そこに男性と女性という四人が上手奥のテーブルについている。そして始まるとそれぞれが切れのいい動きで動き踊る。テーブルから離れてダンス的な動きを強調するが、それはダイナミックであったり繊細であったりする。また2人の男がテーブル状に森を載せて動くコンビネーションが面白い。テーブルから大きく離れると弱まるが、それを介しての振り付けられたコンビの動きが魅力的だった。

 マース・カニンガムの影響が大きいというテロンは、そのほかは武道や禅、タイキョクケンなどを学んだ。しかしルーツは地元で祖父が踊っていた集団によるステップダンスかもしれないという。

 

●松下正巳「あまかみ」テルプシコール、2005.9.4

 松下は大森政秀の天狼聖堂の一員。石井満隆に師事したあと大森に師事した。女性的なキレイな顔と静かな雰囲気だが、年齢を経て怪しさが漂いはじめている。暗転から観客席の前近くに立つ姿は迫力がある。白いバレエシューズにクリームのブラウスとガードル、白塗りして首にリボンの姿は両性具有的、あるいはシモンの人形のような雰囲気を漂わせて魅力的だ。それが本当にゆっくりと後に下がり、しゃがみこみ両手を横に伸ばしたポーズは独自の世界を出した。上手奥に高く赤いビーズのワンピースが吊るされており、そこに頭を入れて前にゆっくり出てくるとつるされた衣装が伸びていく、という奇妙なポーズもいい。ただ方向、手法を変えて三度繰り返す必要はなかったかもしれない。

 そして下手奥のアルコーブにはけてそこで着替え。うっすらとその様子が見える。出てきた姿は赤いそのワンピースだが、髪を下ろしそのなかで水色に大きく目の淵を塗りこんである。この異形もいい。そして前に出てくる形で踊りが展開するが、ワンピースを見せられていたために、落差が少なくおとなしく終っていった。

 後半はちょっと物足りなかったものの、体をしっかりと感じさせるいい舞台だった。

 

●Batik Trial vol2@森下スタジオ、2005.9.6

 黒田育世が主宰するBatikのメンバーたち、研修生を含めたダンサーが自分で振り付けて踊る。ミニ公演というよりチャレンジということらしい。

 7分から14分という短い作品だが、全体的に体を酷使する、あるいはしっかり踊る、動くというダンサーが多い。振付、演出の工夫はさまざまだが、やはり体の動きに個性とパワーがあるダンサーに惹きつけられた。

 

●すまこ・こせき「蓮華考」シアターカイ、2005.9.7

 フランスで活動したりしているすまことアスベスト館出身でワークショップをやっている野口祥子が中心になった舞台。真中にこぶのある縄が垂れ、周囲に輪があり、そこに7名が腰を下ろしてポーズをとる。1人がくずれると上手から這って入ってきた男がのしかかり格闘する。そしてそれぞれがゆっくりと立ち上がって舞踏的に踊りだす。上手手前中心にいた三上周子の踊りが際立っていい。数人は明らかな素人、たぶんワークショップ生がいるなかで、左に微妙に傾げた立ち方でゆっくりと踊るところは力があった。元アスベスト生で目黒大路の舞台にも出たことがある。また坊主にした細見の男もなかなかいい。もう1人の這う男の上に立つ姿、見覚えがあると思ったら、アスベスト館終演の舞台に出ていたようだ。

 次の場面、「あー」という発話とともに勝手に動く場面は、ワークショップをそのまま見せているようで、意味がない。なかでシャンソンを歌ってみたり、インド風の衣装で踊るところも強さがない。馬のポーズなどアスベストメソッドをなぞっているだけだった。

 赤と黒の衣装で踊るところは、舞踏よりもモダンかラテンぽいのだが、中心で踊るダンサーの行き来が独特で、何かひきつけた。

 しかしタイトルをみて、ああ、蓮の花とカンダタみたいなネタだったのか、と興をそがれた。踊りの舞台や美術作品などは、タイトルが内容をそのまま意味してしまうと、面白味に欠ける。観客の想像力を広げられるように、もっと自由なタイトルをつけてほしい。表現者自体の想像力の限界を示すことになりかねないのだから。

 

●サル・ヴァニラ「人ノ像(ヒトノカタチ)BankART NYK、2005.9.8

 いずれもちょっと映像と音に身体が飲み込まれているというのがいつもの印象だが、それでも蹄ギガのソロ、そして男性たちの群舞はなかなかよく考えられていて楽しめた。

 DJ、VJが強すぎたが、それでも縞の映像はなかなか面白かった。

 

●成瀬信彦「なんめり公約」ピット/北区域、2005.9.10

 成瀬はやはり面白い。3日間違う舞台を作るという。この日は舞台にすでに成瀬が白塗りで仰向けに倒れている。手足にはゴムのバンドなどが巻きつく。背後には豚の肉塊と首がぶらさがり、上手にはピアノという撮り合わせ。そして足のバンドが引かれて逆さ吊りになっていく。やがて助手が出てきて、手の紐を引っ張り離すと、激しく体が動き、ぶらぶらと揺れる。この発想、色々チャレンジし、それが新しいものを追求しようとする姿勢がいい。

 そこに登場する黒田オサム、ホイト芸数十年の存在感たるや凄いものだ。よく見ると足さばき、身軽な回転など、とても74歳とは思えないパワー。彼に立ち向かえるのは、東北でじわじわ闘う舞踏家たちくらいだろう。門付けをして生きるという放浪芸、河原乞食はまさに芸能の原点、踊りの原点でもある。

 写真はこれです。舞台のあと、ポーズしたものです。

http://butoh.air-nifty.com/butoh/2005/09/pit_0bf9.html

 ただ映像撮影が入っていて、やたらブームカメラをグルグル動かしていた。反対側でも目障りだから、傍にいた人には顰蹙だったに違いない。舞踏の撮影はスチルは必ず消音を極力心がけて、ビデオも邪魔にならないように謙虚にやってほしい。カメラ音はかなりうるさいし、映像にも妨げになる。ビデオカメラの動きなどが視野に入ると、見る方は妨げられる。その音や姿を見るために行っているのではないのだから、舞踏家側も極力注意してほしい。

 

●荒木志水・神村恵「ダンス」タナトス6、2005.9.11

 神村のソロ、荒木のソロ、デュオというメニュー。神村はいつものジーンズとシャツで、入口から体をカクカクと動かしながら移動する。それも激しく人工的ではなくダンス的でもない、なんでもない動き、日常から離れないモード。というか日常とのギリギリの線を狙っている動き。そしてさらに倒れていく。繰り返し倒れる姿は、決して効果を狙うのではなく、神村の必然性のなかで倒れている。それは何かはわからない。ただ動きの文脈のなかで倒れることが意味付けられている。

 それからデビッド・ボウイの曲に合わせずに立ったまま開いた両手をモゴモゴと動かして踊っていく。ここが特に凄い。曲に関係なく自分のなかの音楽、踊るべき音楽を自分のなかから導き出して、それで踊る。別の音楽を感じているのではない。自分そのものの音楽を聴くことが自分の踊り、自分の言葉になると思い、それに忠実に従っている。その音楽に誘われてやむなく、ひとりでに体を動かしている。そういう踊り、いわば僕らが音楽を聴いて動いてしまうようなもの。それが表現になっていく。ある意味では踊りの始まりのようなものだ。こういう踊りを見せられる神村はちょっといないダンサーだ。

 荒木はかなり表情を隠して踊り、彼女もかなり倒れる舞台だった。いわゆる「ダンス」に陥らず自分の動きを作ろうとする意欲が伝わってくる。ただリズムのある抽象的なデジタル音は、その動きに合ってしまってもったいなかった。

 デュオは神村はシンプルなジーパン姿で荒木が白いヒラヒラのドレス。手前に神村、奥に荒木のユニゾンがベース。2人のコントラストで見せる。冒頭下手の入口に2人が同時に向かい、神村は外に、荒木が中に残るリフレインが面白い。またコントラスト、二重性、二面性を出そうというものでわかりやすいが、音楽がまたデジタル系の音で合ってしまっている。合うとモダンの習作のように思えてしまうので、それを外すべきだろう。たぶん両方ヒラヒラだったら、完全にモダンのコンテストみたいになってしまうかも。後半でそれぞれが分離しながら動くところ、ヒラヒラなのに背後で激しく転がる荒木とのコントラストはいい。3作とも倒れる場面がかなり多かったが、2人が新しい舞台を作ろうという意欲が感じられ、これからに期待がかかる。

 

●「洞察ノ放ツ衝動」神楽坂ディプラッツ、2005.9.13

 このシリーズを見るのは2回目。実力のあるダンサーがソロを踊る回と、そのソロの途中に他のダンサーが自由に入って即興でコラボになる回がある。前回はソロだったが、今回はコラボ作品を見た。これが面白い。

 会場の奥、ホリゾントの黒い扉を外して隠れたまま舞台にゆっくりと登場する奥田純子は、背負ったバッグから犬の顔が覗く。オヤと思うと生きた犬だ。立てかけた扉の陰にバックを隠して踊りだすと、衣装はディアナのようなヒラヒラ、これらのギャップが面白い。最後は犬を放すという着想だが、できれば犬を背負ったまましばらく踊ってほしかった。しかしそこに他のダンサーたちが勝手に混ざる。この場面では帽子を深く被った伊藤虹が怪しい雰囲気で目立った。

 そのまま松本大樹が残ってソロを踊る。松本はテクニックも踊りのボキャブラリーも十分。よく動く体は見せるし面白い。それぞれのソロについていえば、若松は長身を生かしつつ、バレエベースでありながら、独特の癖のある動きで魅力がある。伊藤虹は出だしがダンスっぽくしっかり踊る動きだったのが、すぐに得意の祭りモードに入ったのが惜しかった。彼は踊れるしタイトな動きもうまい。表情を消すために顔の一部を青塗りしていたが、表情自体を考えたほうがいいかもしれない。

 JOUは語りとダンスのシリーズ。ういろうとカルカンが好きといいながら、「ういろう口上」を語りだすという演劇手法で、そこにダンサーたちが進入する。特にゲスト参加した白井さち子が手話振りから背後で口を動かし軽妙。白井はどの場面に出ても軽みのあるアイデアながら、動きに独特のしっかりとした重さがあり、存在感を出した。特に白いウエディングを着せられた人形のような姿は爆笑ものだった。といった「遊び」を含みながら、暗くなって僅かな照明のもとで踊るJOUの踊りは素晴らしい。ともかくしっかりと延びるほっそりとした身体の魅力と、さまざまな動き、同じ動きを嫌って繰り出す動きの魅力が、背後のアルコーブから差し込む光に映えた。さらに踊りは次第に迫力を増し、JOUが踊りに完全に入っているのが感じられた。もっと続けばと思うところで持ち時間がすぎたらしく、次の場面に。

 今回のさらなる収穫は川野眞子の動きだった。前に出した手を縦においてよじるような動きに合わせて、顔を左右にフルフルと動かす。全身の左右への貧乏ゆすりのような動きで、これが奇妙に面白い。そこから時に踊りらしくなるのだが、このフルフルとよじれ感が残ったままで、非常に説得力のある独自性が感じられる。他のダンサーが入ってきても、どうなるのか目が離せなかった。「妄人」というタイトルはもっと外したほうがいいだろうが、これは確実に「何か」だ。ラストは野和田恵利花で、日本語のフラダンスのような歌に合わ振りなのだが、意味が全然ない動きだけで見せようとするもの。広がりはないが彼女のセンスはやはり光っていた。

 各々のソロと自由なコラボの実験の場というところだろうが、ともかく飽かせない舞台だ。通常ソロで実力が出ると思いがちだが、のみならず人の舞台に即興で入ってくるときに、その人のセンスと動き、何が本当にできるのかという実力が見える、いや見えてしまうという、ある意味ではダンサーにとって怖い場であると思う。

 

●トリスタン・ホンジンガー、堀川久子@横浜サモワール、2005.9.14

 デレク・ベイリー、セシル・テイラーらと共演して即興音楽の草分けの一人といわれるトリスタン・ホンジンガーはまだ56歳、チェロを弾く。堀川久子は長年師事した田中泯の元を離れて、東北に住み地元と海外で主に活動する舞踏家。堀川が知るテナー奏者松本健一の紹介で来日公演の神奈川と千葉が実現した。

 会場は紅茶専門店でジャズ公演を行うサモワール。馬車道にあり横浜ジャズストリートのときは店の前がメイン会場のようになる。そのときは横浜を中心に即興ジャズ奏者が集まり、大野一雄舞踏研究所の研究生や大野一雄・慶人などが踊ってきた。

 通常はモダンジャズなどのライブを行っているらしく、今回のような即興で舞踏との共演は初めてらしいが、ママさんのはからいで料理も出るなどサービス満点。

 ともあれ公演は、まずホンジンガーのチェロに注目が集まった。正確な音と抒情、リリシズムを感じさせるメロディを現代音楽的な文脈で展開する。ジャズ的なモードよりもフィリップグラスなどを思わせる和音や、ケージ、シュトックハウゼンなどのテンションが強い。ソロで聞いたらかなり現代音楽的。ジャズでもセシル・テーラーなどの世界だ。そこに時折アイリッシュやエスニックなメロディ、戯れに「ティーフォートゥー」を入れたのは紅茶店へのオマージュだろう。

 音楽としては松本のソプラノサックス、ベースの伊藤啓太とのそれぞれデュオ的な絡みが刺激的だった。トリスタンはしかしチェロを弾くのみならず、乗ってくると声を発する、さらに立ち上がってチェロを持ってパフォーマンス的に動き、言葉を発したりとさまざまな行為でコラボレーションする。舞踏の堀内とは以前に白州で出会ってからの交流。

 堀内は黒いワンピースに縄を絡めて縛り、足には尖ったハイヒールで踊り始めた。徐々にテンションが上がってくると、言葉も発しながら動き回る。だが前半は抑えた感じ。休憩を挟んだ後半はシンプルな黒のパンツとシャツにリュックで散歩のような動きから徐々に入ってくる。カウンターの下を這いずり椅子の足に絡むなど、刺激的な行為、さらにジャケットを羽織ってかなりダイナミックな動きだが、独自の広がったテンションで踊る。

 楽器の多いコラボの場合、音量やテンポが上がって盛り上がりがちだが、いずれもそれを抑えていた。ベースの伊藤は最初にアルコを壊してしまったが、それを挟んで震わせて体も震わせるなど、いいパフォーマンスが見られた。

 ともあれ伝説の音楽家ではなく現役の刺激的な音楽家であり、舞踏、ダンスとのコラボレーションがもっと見たいと思わせる舞台だった。

 

●ロコ・カワイとその仲間たち「ま」うちとそと@遊工房(西荻)、2005.9.17

 

 西荻窪から北にバスで10分、井草八幡、善福寺公園そばにある小さなスペースは、もとも結核診療所で80年代からアートスペースとなっている。

 ロコ・カワイが国際文化会館に滞在していることから、この企画となった。

 10畳ほどのスペースに桟敷が主体の観客席、左右に40名ほど。駐車場に開け放った窓から新井英夫が登場し、置いてあったスニーカーからオルゴール・ユニットを取りだし鳴らして、その音で踊る。すると駐車場から膨らんだビニールの大きい筒が表れ、部屋に入ってきて、それを持ったロコ・カワイが登場。玄関に抜けていくが、戻ってきてポストでオルゴール。そうして2人で踊る。シンプルな動きと踊りに、クリストファーの尺八がリフレインを奏でる。窓から新井が登場して拍子木を鳴らしたりという遊びのあと、玄関のスリッパをロコが背後に投げまくる。それを集めて2人で繋げて動く場面は面白い。スリッパ遊びダンス。それを並べると、観客はそれを履いて駐車場に移動。そこが今度は観客席。部屋の中できむらみかが歌い始め、外でクリストファー遙盟の尺八。2人が外に出ると、新井とロコが白熱灯をそれぞれ持って登場して踊りだす。するとスタッフが外してあったスリガラスをはめる。部屋の中からの白熱灯の光と影によるダンス。2人がガラスに接近すると姿が観える。重なるようでずらしているその絡み方がいい。音楽は童謡。一旦終るかと思うと、大きい音で童謡が響く。6時の区内放送。音楽の2人もそれに合わせて観客に合唱を誘って終る。

 小さいスペースをうまく使った楽しい舞台。特に最後の公共放送を使い、それに合わせて舞台を展開したやり方はなかなかいいアイディアだ。駐車場に40人座りこんで見ているところを巷の人が通りかかったりと、なかなか楽しい雰囲気だ。特にスリッパの部分はアイディアと見せ方が楽しい。影ダンスは昔からある方法だが、こういう日常の場所とモノを使って見せるさりげなさに意味がある。凝った装置を作らずとも、かなり遊んで面白い舞台を作った2人と、スタッフ、音楽家に拍手を贈りたい。

 

●松山バレエ団「ジャパンバレエ2005」五反田ゆうぽーと、2005.9.18

 シンデレラの1幕と後は松山バレエ学校の発表会。とはいえさすがの舞台作り。一番下は9歳だが、構成の上手さできちんと見せる。1つめはバーレッスン的な作りから後半で少しだけ中心で踊る。2つめはまさにキッズのためのバレエという子どもだらけだが、しっかりまとめれていて、「可愛い」「小さい」というだけではない。いずれも群舞による構成が中心で衣装もいいし楽しく見せる。星座の紗幕や地球型舞台、きらめく星など凝っている舞台は、円形舞台上での展開がちょっと飽きた。そして最後の2つはいわばグランドフィナーレのための作品。奥行きのあるセットを組み、船が登場するなど装置も凝って迫力があるが、なんといっても子どもたちから団員、教師を含めた300人が舞台に登った姿は圧巻。これだけの人数を見事にこなして舞台からそのパワーを見事に伝えた。発表会といってもあなどれない。培ってきた振付・構成・演出力が見事に発揮されている。もちろんバレエの技術もすばらしい。

 

●東野祥子・Baby-Q「Alarm 0 hour」@シアタートラム、2005.9.23

 東野は、トヨタアワードのときに見て、テクニックはあるし構成力もあるけど、ツメが甘いと思った。今回もそういう印象。右側に置かれた巨大なオブジェは時折動くが、一回動いてしまえば、次にインパクトはない。映像や背後に動く人々など、楽しい仕掛けが一杯なのだが、「仕掛け」と見えてしまうところ、そこがたぶん甘さだろう。部分部分で見れば、かなり面白いし、次に何が出てくるのか、と楽しみではある。だが残らない。たぶん次々とアイデアが出て、それをどんどん実現しようとするタイプだろう。だがもっと絞って、「なんでこれをやるのか」を詰めないと、おもちゃ箱以上のものには見えないという気がする。いってみれば、そのアイデアの必然性ということろ。いいダンサーでいいセンスがあるし、メンバーもなかなか動ける男たちもいるので、期待したい。

 

●田山明子「少年骸骨」テルプシコール、2005.9.23

 杉田丈作の朗読とか色々使う必要がどの程度あったかどうか。ただ冒頭上手奥に立ち、じわっと動いてくるところはなかなか見せる。大きなクシャクシャの銀紙を使うのはいい。ただ工夫しすぎない、シンプルが似合う舞踏家だと思う。

 

●吾妻橋ダンスクロッシング@アサヒアートスクエア、2005.9.23

 吾妻橋はまさにいい意味で、コンテンポラリーダンスの祭りだろう。

  ボクデス「チマチマダンス・コレクション」はカレー早食いネタとボクロールのときのコント。山懸太一はチェルフィッチュの役者で、そのテイストを感じさせるトーク。康本雅子の「Honeymoon」はウサギの耳をつけて暴れる楽しいダンス。

 丹野賢一「017-SPEAKER」はトラメガで息づかいを伝えて観客席から舞台に登場。顔を拘束した怪しい雰囲気と緊張感。特に息づかいに一本とられた。黒沢美香&ダンサーズ「接吻」は男女が集団、それぞれ同じ衣装で不思議な雰囲気で揃って踊る姿が、奇妙に楽しい。この「ズレ」がいい。男子はだまってなさいよ「ヘソを当てる」はブリーフ男たちとTシャツ女性たちのコント。妙な味でユルサも魅力。KATHY「MISSION/Az」は金髪の鬘と顔に黒いストッキングをつけて、ボレロを踊る。次々と観客を同じ姿にして踊り続ける、このオバカな参加型ボレロはメロディの盛り上がりとともに、なかなかな乗りだった。

 チェルフィッチュの「ティッシュ」はOL2人の会話とゆらゆらした動きが、やはり面白い。丹野賢一「011-DOT」は音楽とともに激しくなって踊り、倒れる丹野のパワー。

 康本雅子と山懸太一「Washing Machine」は康本が洗濯機になって、山縣がスイッチを入れる。以前の作品では人間ビデオになっていた。康本のこういうアイデアは面白い。そして踊りがいいのだからいうことなしだ。男子はだまってなさいよ「一本さん」は、ヘソさわりにギャグが続くが、ちょっと飽きる。

 ボクデス「ラ・ラ・ラ・脚立・ステップス」脚立で暴れる小浜正寛と佐川智香のデュオで、脚立の音などコワイ感じだが、佐川さんとのコントラストがいい。

 黒田育世×松本じろ「モニカ モニカ vol.2」『トリプルビル』で松本じろの音楽で金森穣を踊らせた黒田。あの激しい踊りは、実は自分でやりたかった踊りだ。まさに「ダンスになりたい」「骨が折れても踊りたい」という黒田の踊りに対するフェティッシュかつマゾヒスティックかつアクティブ、能動的なパワーと感覚が直に伝わって、感動してしまう。

 次回は首吊りもあり、テルミンもある。これは楽しみ。

 

●赤土類@高円寺パラグローブ、2005.9.25

 東高円寺、環七沿いの小さなギャラリー、地下倉庫のようなところで、美術展が続き、そのなかで赤土がパフォーマンスをする。丸太を切って木の皮をむく。それを組み合わせて、2メートルほどの高さにして、その上の残っている枝に登ってぶら下がる。高くないギャラリーの天井付近で蠢くのだが、これが面白い。もっと高い木で通常吊り下がってきたのだが、こんな高さでも十分身体が響いてくる。ちょっと民族衣装的な雰囲気で登場し、儀式性もあるが、実際空中にある赤土の姿を見れば、ほとんどの人は納得するだろう。これは凄いパフォーマーだと。

 

●コンドルズ「トップオブザワールド」シアターアプル、2005.9.25

 「トップオブザワールド」は自分たちの人気やアメリカの覇権主義など、「トップ」的なものを皮肉った作品。ダンスとコントの楽しさのなかに、じわっと社会性をにじませる近藤良平は、ダンスを作ることは個人的のみならず社会的な営みであることを十分意識している。しかし決してプロパガンダではなく自分の素朴な感性と意識から表現する。

 

●福士正一、新宿ゴールデン街、2005.9.26

 ゴールデン街では店と街路を使った展覧会GAW展が開かれており、今回で5年目になる。ここで秋山祐徳太子のパフォーマンス、そして舞踏家福士正一と音楽家ガンジーらがパフォーマンスを行った。福士は青森の図書館副館長。街路劇場として東北、そしてアジア、今年は欧米を回った。と、このページに福士の背後には僕の姿が……

 

http://gaw5.hp.infoseek.co.jp/fukushi&asahara.htm

GAW展ページ

http://gaw5.hp.infoseek.co.jp/

 

●「舞踏の源流 文楽」東放ミュージックカレッジライブホール、2005.9.26

 白虎社出身で関西で活動する由良部正美が谷川賢作のピアノで踊る。バックには谷川俊太郎による詩の朗読が時折流れる。由良部の舞踏は自分を追い込んで踊るのではなく、自然な流れで踊るタイプ。緊張感はないが心地よいといえる。

 そして文楽の英太夫、桐竹勘十郎による「」。これを人形抜きで演じる。文楽は三人遣いとして、人形を頭と右手、左手、足の三人で演じるが、人形なしでそれを演じて見せた。普段は見られない手や足、体の動きが見えて、とても興味深い。

 

●日韓ダンスコンタクト@青山円形劇場、2005.9.29

 JOUの「Hanabi」はホワイトボードに通訳付きで観客に語りかけ花火についてのアンケートを取る。一人観客を舞台に上げてその結果を聞き、そのイメージを含めて花火を踊るという。退場して暗転、白いものをぐるぐるまとったものがうごめいて、次第にそれがほぐれていく。十メートルくらいになる白い布を延ばして、その上でころがり、ダンスを踊る。映像と布とJOUの絡みが面白いが、ポイントで身体、踊りがもう少し見えるほうがインパクトがあると思う。

 康本雅子の「耳と口びら」は音楽に合わせてスポットでシンプルに踊ることを移動して繰り返すのだが、そこに中途半端なバニーガールが登場して、上手横でお茶を入れる。ちょっと絡むところはあるのだが、何より淡々と自分の踊りを踊る康本とこの女性のコントラストが秀逸。康本の動きはコケティッシュな女の子的動きを過剰にして、ある種の狂気的パワーを感じさせる。この踊りのボキャブラリーは本当に独特だ。

 ハン・ヒョリム(韓孝林)「空」は、小さい照明を床において踊り、民族的なダンスから中央に衣装をつりさげるのだが、新しさはなかった。またイ・ジウン(李知恩)イン・ジョンジュ(印庭珠)の「sun rise,sun set」は、女性二人で淡々と置きあがったり倒れたり移動したりを繰り返す舞台はコンテンポリーダンス。日本ですでに多くがこうういった動きを作っているので、インパクトに欠けたが、熱演のパワーは伝わった。

 イ・キョンウン(李慶殷)と斎藤栄治「SAI―間」はちょっと面白い。それぞれ独特の動きを持っていて、いいコラボになっていた。ただちょっとエンターテイメント的になってしまう危惧も感じた。

 

2005年11月22日

 

 

「2005年8月の舞台評」

 

◆2005年8月の舞台評

 「ミニ批評」の掲載が2カ月までで、間に合わなかったので、ここに掲載します。

 

●NBAバレエ団「ゴールデン・バレエ・コースター」2005.8.1

 中国、韓国、ロシアなど海外から集まったバレエダンサーたちとNBA団員が作る舞台。色々展開するが、注目したのは、リン・リン・タンの「瀕死の白鳥」と「ロメオとジュリエット」の場面、これは圧倒的に素晴らしい。また中国のリュウ・シンのソロ、武道とバレエとストリートダンスが混ざったような舞台が、そのパワーとともに迫る。他にも中国のダンサーのソロがいくつかあるが、これが圧倒的。

 またロシアの父子で参加したシムキン父子のダンスも沸かせたが、正統派のクラシックのパドゥドウで踊る息子ダニール・シムキンは、相手役よりもちょっと女性的にエロティックだった。というかテクニック、存在感ともに秀逸。

 

●大橋可也「サクリファイス」麻布ディプラッツ、2005.8.2

 1日だけの公演に130名以上が詰めかけて、踊る場所が少ない舞台。ホリゾントに並べた椅子に普段着の男2人と女1人が座る。そしてキツネ面の女江夏令奈。立つミウミウが独特の自閉的な世界を踊り、横で謎のキツネ面が飛び跳ねる。そこのスカンクのエレクトリックな騒音が絡む。ロックギターをベースとした音が濃密に舞台を包み、それが全体を上手くコントロールしている。途中で使われるテレビのインタビューもうまい逸らし。キツネ面を外した江夏の可愛さがちょっと光る。

 場面が変わると登場人物が去っていき、次にバットを持った垣内友香里が暴れそうでなさそうで、でもちょっと暴れる。オバさんぽいキャラを作って面白い。

 さらに関かおりが菓子を円形に並べて、そのなかで後ろ向きで自分の足を縛る。そのパンツの見えそうな尻を観客は注視する。縛った拘束的な動きの関に対して、青年皆木正純は勝手に暴れる。このコントラストがなかなかいい。

 こうやって3組がそれぞれ去った後、一人残る髭メガネのロマンス小林。彼はちょっと微妙に動いて、しかし期待を外して去っていく。これはなかなかカッコイイ。

 

●VIBE舞踊団、神村恵、神楽坂ディプラッツ、2005.8.3

 VIBEは大学などの教室の発表会レベル。

 神村恵は愚かだ。自分のできる動きを封じてそこから踊りを作ろうとしている。模索中でいい踊りではない。しかしその模索のパワーは初めて見ても伝わるのではないか。踊りが立ち上がる瞬間が感じられる、そういう踊りだ。左手ということにこだわった部分、もっと徹底的に左手にこだわって、例えば唐十郎の芝居における義手、つまり左手が意思をもって動き出すくらいの身体性を獲得すれば、面白いだろう。もちろん演技として「左手がかってに動く」ということではない。踊りのモチーフは単に踊りのためではなく、自分の生きるモチーフになりうるのだが、それを追求しているダンサーだ。

 

●和栗由紀夫vs上杉貢代「神経の秤」麻布ディプラッツ、2005.8.4,5

 自分の推薦・企画について語るのは難しい。この2人は、すでに自分のグループを率いているプロであり、そのコラボレーションという企画の依頼に難色を示した。ただ共に非常にいいソロを踊るので、一緒に舞台にぜひ上がってほしいとお願いし、ようやく一応の了解はとれた。そして当初和栗が大半踊り、上杉は15分出るというような話だった。それがリハーサルを行ううちに舞台上でまったく対等という状態になったのは、本当によかったと思う。上杉もかねてから踊りたかった曲で舞台を踏み、2人ともスタイルはちがうけれど、世代的にもほぼ同じでツーカー、4回のリハーサルで見事に作品がまとまった。

 和栗はなんども衣装を変えて異なるキャラクターを作ろうとした。上杉はちょっと裸身を見せたのみで、あとはシンプルに踊る。そしてなんといって、後半2人が遭遇し、ちょっと触れるか触れないかで重なっていくところ、ここは本当に美しく素晴らしかった。

 

●チェルフィッチュ「目的地」びわ湖ホール、2005.8.6

 捨て猫や犬を救うプロジェクトが開かれる横浜の地域コミュニティ、その説明が映像で流れる。そこで登場する猫と貰いそうになる夫婦、友だちの女とそれを妊娠させたかもという男の話が、人と人が入れ替わったりなどしながら展開する。役と演じることを解体する方向性がさらに強まり、また身振りへのダンス的ともいえる表現意識が強まった作品だ。演じるという点では演じ手が猫になってその視点で語ったり、錯綜するが、それを敢えて演じる前に語る、「この猫はどうかっていう話をします」などの前置きで明示することで、一応観客に理解させる。しかし見ているうちに、「これは誰だっけ」という惑いとともに、物語の虚構性を意識しながらも取りこまれている。そしてこれまでなかった映像の使用で物語を多層的に見せることができている。そこでは淡々と地域コミュニティの説明が語られ、客観的なものと私的な物語がうまく対比される。岡田の作品は上演を繰り返すことでおそらく完成度が高まるのだが、高まりすぎるとその「揺れ」を楽しめなくなるのでは、という危惧もいだく。作りこまない言葉だけの映像、このままでいい。

 

●伊藤キム+輝く未来「未来の記」びわ湖ホール、2005.8.6

 伊藤キムはどこへ行くのか、それが見終わって最初に思ったことだ。この作品はある種の一時的な遺言、あるいはダンサーたちへの贈る言葉のように思えたからだ。

 背景に吊るした衣装はこれまでの残像、それを身に付けて踊るダンサーたち。キムのテクニック、ダンスの話法で踊るダンサーたち。キム自身のソロもそれをなぞるかのようだ。繰り返し下手から上手に進むダンサーの動きは前進を意味する。それは翻って舞台から観客席に向かってくる。そして背後、幕が上がって本来の観客席のなかに落ちて消えていくダンサーだち。そこから再び舞台に這いあがれというかのようだ。教えることはすべて与えた。後はダンサーたちが自分で舞台で戦えという言葉を残して伊藤キムは去っていったように思えるのだ。

 

●ダンスピクニック@びわ湖ホール、2005.8.6

 びわ湖ホールの企画では、ロビーで毎回3組が踊る。無料なので、これだけを見るのもオトク。関西のダンスの一端を見ることができる。

エメスズキ

 OLっぽい人が横にきたと思ったら、長いベンチの上にある大理石?の長い台の上で踊り出した。紙袋を持っていて、普通の人のノリからどんどんおかしくなっていく。自分の世界があって、気合いもあっていい。

ポポル・ヴフ 

 白い衣装の3人の動き、ホールにソプラノサックスが響く。1人かなりしっかり動けるダンサーがいた。白い空間にこの取り合わせ、雰囲気がいい。

今貂子+倚羅座

 舞踏で、今の動きは渋い。魚のかぶり物をした女性とか、ちょっと様式的だが、インドのパーカッションに合った感じだった。

 

●BIMO DANCE THEATER Jogjakarta+曽我傑(インドネシア/日本)「FATAMORGANA-ファタモルガナ」~Diantara ada dan tiada ある(有る)とない(無い)のあいだ@麻布ディプラッツ、2005.8.7

 インドネシアと舞踏家和栗由紀夫、照明・音響家曽我傑のつながりは、和栗がインドネシア公演をしてから何年も続いている。BIMOの振付に男性3人、女性1人のグループが来日。女性のソロは極端に長いスカートの衣装を効果的に使った冒頭、そして踊り出すと微妙なエロティシズムがあり、バレエテクニックも垣間見えるが、なかなか面白い。男性たちは先住民的に茶塗りをして、たくましくネイティブっぽいダンスを中心に踊る。1人がジャワの影絵芝居ワヤンの名手で、ワヤンを使った踊りなどを交える。ダンステクはモダン、バレエなどに民族的な動きが混ざったものだが、われわれからみると、これがうまく解け合っている。これはBIMOのセンスが非常によく、柔軟な感性をしているからだろう。和栗や交流に関わっている女性舞踏家、モダンダンサーらとともに舞台に上がり、即興だが見応えのある展開だった。観客にもかなりインドネシアダンスのファンがいるらしく、男性ダンサーに群がっているのにはびっくりした。

 

 

●アダチマミ+無所属ペルリ@神楽坂ディプラッツ、2005.8.8

 新人賞による上演だが、このグループを押して間違いなかったと確信した。女性たちによる日常的な動きを入れたダンスは最近流行っており、いくつもあるのだが、このグループはちょっと違う。

 見ていて、次に何が出てくるか、予想ができない。そのため舞台に惹き付けられる。非常に巧みな間の取り方と動き、外しなどはすべて計算されつくしている。といってもあるシステム、ロジックがあるのではなく、アダチマミという振付家の感覚だ。下着姿で座る2人と1人のコントラストと、身を屈める奇妙な動き、その感触が、「何か」を期待させる。展開する動きも期待を裏切る。そして暗転して登場する西洋便器、開くとそこからソーメンをよそう。前は湯気立つ白御版だったが、これもなかなかいい。できれば食べてほしいのだが。そしてアダチマミが変な童謡を歌いながら登場し、途中で口を抑えて歌いつつ踊ると、他のダンサーも同じポーズで踊る。意味などないのだが、面白い。いやちょっと聞こえる「男は狼とママがいった」というところに、セクシュアリティを忍ばせている。顕著ではないが、さりげなく女性のエロスを意識している。そして最後のコントラバスを弾きながらの奇妙なヴォーカルのリフレインとともに、それぞれがスポットを浴びて、よじれるように倒れ、踊る。ここも美しい。そして1人が上手前に進んで、パンツに手を入れるような動きで暗転。

 新人賞のときよりもさらに動きなどが安定し、展開もしっくりいっている。

 2つ目が新作「まな板の歩き方」。青いシャツに紺のズボンやスカートで登場すると、みんな意味ありげに、なさげにうろうろしている。そして音楽とともにいきなりダンスを踊りだす。おお結構動けるじゃないか、と思わせ、でもこれじゃないよな。と思うとやはり裏切って、奇妙な世界に入っていく。去っていた2人がホリゾントのアルコーブから、いきなりズボンを途中まで下ろして、白いパンツを晒して登場する。そして踊ったり倒れたり、エロスを意識しながら過剰ではなくうまい。そこにアダチマミが登場して、輪ゴム鉄砲で下半身を狙ったりと、コミカル。2人に混ざろうとすると外されるという動きを繰り返していく。さらに渋さシラズの強い音楽とともにこういった、ズレのダンスが展開する。全員が前屈みで床に頭をつけながら、微妙に片足を上げるなど、負荷とよじれが表れる。奥のアルコーブに入った3人が上半身を少し出して横たわっている姿、1人が宙に浮くように見せていて面白い。最後も音楽が盛り上がり照明も強まるのだが、誰も登場しない。

 このようにすべてが見事に構築され、一見遊びだらけに見えるが、きちんと構成されている。体に対して独特の負荷をかけてちょっと奇妙な動きにする。

 いずれにしても、次に何が起こるか予測がつかず、予測を裏切ってくれるために、舞台を注視するこの振付はなかなかなものだ。

 

●荒木志水、ヒグマ春夫@キッドアイラックホール、2005.8.9

 キッドアイラックが移転新装なって初めていった。とてもキレイで天井の高いホールだが、客席は小さく、中心を取り巻くように観客が並ぶ。ヒグマの映像はここのところ水がテーマだが、水のこぼれるインスタレーションと丸い紗に映す映像が中心。荒木は地下から黒い衣装で登場。照明も暗めでいい雰囲気。間近で体を捩り踊るが、エロティシズムがない。可愛い顔が暗めの照明でかげったため、いい感じで身体を感じることができる。このエロスのなさは、彼女の特徴として、武器にしていったらいいと思う。

 

●金森穣Nomadic project2@めぐろパーシモンホール、2005.8.10

・「HIM」金森穣、熊谷和徳

 5m四方、いややや長方形の板、下手奥に電気スタンド、下手奥にソファ、逆光で金森がソロを踊っている。座っていた熊谷が立ち上がって、タップでリズムをとると、それに合わせて踊りだす。金森の動きは信じられないくらいに豊かなボキャブラリー、かつスピード感、リズムも素晴らしい。先日のNoismでも、彼の動きは格段だった。そして熊谷のタップも面白い。かなり複雑なリズムを刻む。だからリズム、音と金森の動きというコラボは成功している。しかしふと、これでは熊谷はドラマーと同じじゃないかという気がしてきた。僕はかなり前で見ていたし、オペラグラスも活用したので、足の動きはよく見えたが、それでも足の動きがダンスとして、金森とコラボっているかというと、それはちょっと疑問だ。広い会場で観客にその足がどこまで届くか、それは映像でも使わないとちょっと難しそうだ。

 途中、金森がタップする熊谷に砂をパッと投げ、それで引きずるような動きと音になったところは面白かった。また、冒頭は熊谷が裸足でタップを踏んでいた。音はシューズがあったほうがいいが、しかしこれはいっそ裸足タップを貫いたら、また違うものになったようにも思う。

・「PASSOMEZZO」オハッド・ナハリン振付、稲尾芳文、クリスチャン・ヒョット・稲尾

 膝当て、吊り短パンに上着など、黒い衣装がカッコイイ。しかし動きは僕には特に面白くなかった。バットシェバで有名な振付家だが、89年作品のためか、グリースリーブス変奏曲のためか、鮮度がなかった。

・「Off light」ケン・オソラ振付、渡辺れい

 白いパンツにチューブブラのような衣装で、上手サイドから可動スポットを男が操って照明を当てる。身体の特徴がキレイに浮かび上がって、印象的。適度にエロティックというか、身体的な印象が高まってキレイ。たぶん渡辺に合わせて振り付けたので、非常にダンサーに合った動きになっている。

・「Act.9」遠藤康行、ガブリエラ・イヤコノ

 黒い姿のデュオで、身体性は申し分なく、所々外す動きもあり、見せるのだが、特に残るものはなかった。

・「Dual Axis」 稲尾、クリスティン

 黄色っぽい衣装は下がオムツのように繋がっている。そして床で転がりながらの動きは、求愛と愛の行為を模倣したようだが、なかなか見せる。ともかくべったりと床で踊りつづけるこの展開はなかなか面白い。そして女性が後ろ向きで上半身を脱ぎ、男は全裸になって這って終るところもそれなりにインパクトはあった。

・「Sleepless」イリ・キリヤン振付、小尻健太、湯浅永麻

 ホリゾントの下三分の一だけ明るく、そこに男女のシルエットが浮かび上がり、踊りが始まる。さすがにキリヤンの作った動きは斬新だ。他にない動きを常に追求している。そしてこの2人も十分それに応えて、凄く切れのある踊りを展開する。デュオで見ていてかなりいいのだが、離れるとさらに実力が見える。音楽も緊張感を高めて、凄くいい。

・「Again n'Again」アンドニス・フォリアダキス振付、大野千里、コスタス・ツウカス

 早い音楽に合わせて懸命に展開するソロ。しかし動きに鮮度はない。どちらもうまいのだが、それだけ。

・「Post Script」ポール・ライトフット、ソル・レオン振付、小尻、湯浅

 やはりこの2人の動きは尋常ではない。どちらも優れた身体性でさすが現役ネザーランドという力を感じた。

・「NINA-prototype」金森穣振付、井関佐和子

 4m8mくらいの長方形に舞台を照明が照らし、上手奥に椅子。井関は髪をぴったり貼り付け、白いぴったりとした衣装で、半ば腰を突き出すようなポーズで立っている。そして動き出すと、これは凄くタイトでカッコイイ。リズムを刻みながら、テンションとポーズ、そのポーズの部分が独特。動きも本当に金森がしっかり振付、かつ彼女の個性も十分出しているように思った。ただちょっとレプリカント、ロボットのような印象。タイトルを見るとたぶんそういう意図なのだろう。しかしそこに収めてしまうのはちょっとどうかなあ。ポーズも決まりすぎていて、ちょっと「イオナ」を思いだしてしまった。

・「3A」アンデル・ザバラ、安藤洋子、シィリル・バルディ

 黄色いブラウスに白のスカートの安藤、茶系か濃い紫で上が横縞ニットっぽく、下はパンツの男2人。

 安藤と1人が床で絡み、コンタクトインプロっぽい展開。傍らでもう1人が立ち、合わせて時折腰をちょっと屈めたりする。そして2人は立ち上がって、3人絡むようになり、ペアが入れ替わる。さらに安藤が取り残されるように1人で踊り、男2人が絡む。音はチープなパーカッションのリズムにコトバが絡む。それが後半で「ナマムギナマゴメナマタマゴ」であることが判明してくる。そのへんで置いてあったトラメガで男がわめきだす。男同士が取りあって絡むが、安藤は動かない。次第に照明が明るくなり、男は懸命にトラメガでがなる。音楽と「生麦」も大きくなって終る。

 3人の動きに見所はあるが、作品としては「ありがち」という印象。前にフォーサイス、安藤作品として行ったコンタクトインプロ、あの男だけの動きのほうが強かった。この程度のアイデアでは日本の観客はもう驚かない。今回演出にも関わっており、安藤とワークショップを行っている日野晃という武道家の参加で動きが変わったと聞いたが、目立ってそれはわからなかった。

 

●ピエール・ダルド+イマージュオペラ>>ロマネスク<<「ザンビネッラ ZAMBINERRA」麻布ディプラッツ、2005.8.11

 フランスで活躍したピエール・ダルドは見事なテクニックを持っている。今回はそれよりもバロック・ダンス、昔のサークルダンスというかデュオダンスというか、そういうモードを中心に踊った。これが自在なJOUとも良く合う。主宰の脇川海里は顔をカラフルに汚した姿で蠢いたが、ちょっとダイナミックな動きも欲しかった。女性たちが黒い平台を活用して、うまく隠れたりという展開はなかなかの構成。上手手前の長いすでレズっぽい動きをするところなど、見せどころも多く楽しめる。イメージの混沌、雑多な混成が基本だろうが、それでもきちんとまとまって見えるところは、ダルドのダンスが締めたためか。最後にJOUが喋りつつ、カラオケなど遊び出すが、これも結構マッチしていた。

 

●若衆とその仲間達「道しるべの傍らにて」神楽坂ディプラッツ、2005.8.12

 アスベスト、駱駝などに関わってきた舞踏家鶴山欣也の主宰するグループが、韓国、スペイン、セルビアなど交流のあるダンサーたちとともに、小作品をいくつか構成した。

 雫境は音が聞こえないために、ちょっと独自の間合いを持つ。Shinichi Momo Kogaは緊縛を中心としたソロを踊った。特によかったのはキム・ヨンチュルのグループの構成。女性たちが舞踏的な衣装で舞台手前で紙で花を作っていく。かなり緊張感があり美しい舞台構成だ。鶴山たちと混ざった部分もなかなか見応えのある展開だった。

 かなり混沌、カオイックな舞台だが、ショーケース的に各国のダンサーの個性を垣間見ることができて、収穫だった。

 

●百人芝居「真夜中の野次さん喜多さん」愛知県勤労会館、2005.8.13

 天野天街はやはり凄い。2人芝居として素晴らしい作品であるものを、百人芝居、いや百六十人以上の役者を舞台に載せて、スペクタクルとしても魅力的な力を見せた。元々小熊ヒデジと寺十吾という2人の天才が、『くだんの件』という作品で天野と組み、演劇ファンを魅了したことから始まり、二作目のこれは以前に演じられたが、それをなぜ百人芝居にしようと思ったのか。それはそういう舞台を作ってみたかったから、としか語らないだろう。オーディションで百人を選ぶ予定が、断る理由がないとのことで、百六十人以上に膨れ上がったが、天野は見事に彼らを舞台で花咲かせた。

 ベースは寺ら2人がヤジキタとして旅をするのだが、そこに幻想として次々と登場する人々、ギャグネタとして登場する人々。このディテールも巧み。その内容も面白いのだが、やはり多勢に無勢。背景や全景を次々と現れる奇妙な姿の人物たちというモブシーンの生かし方、そして置くに作られた巨大な棚に揃う出演者たちの姿は、圧倒的なパワーを感じさせた。

 

●第3回愛知ダンスフェスティバル「ダンスコスモス」愛知県立芸術劇場、2005.8.13

 海外で活躍するダンサーの里帰りと愛知のバレエ団、振付家などを中心に、ゲストをまじえてだが、バリエーションに富み、かつ豊かなプログラムだ。

 古典バレエのハイライトの上演やモダンダンスなどの創作を含めて、全体として愛知の技術水準の高さを見せた。

 HRカオスの大島早記子の振り付けた新作は、オーディションによるバレリーナ4名のダンスだが、テクニックが素晴らしく、非常に魅力的だった。特に若い米沢唯の冒頭からのソロが圧倒的にいい、そして次のソロの寺井七海はダイナミズムと表現力を見せた。

 もう一つの目玉は酒井はなと西島千博によるモダン作品『内―外』。ショー的な要素、コミカルな男女の関係を描くのだが、これほどのテクニックがあれば、エンターテイメント的なダンスがそれを超えたものになるということを、見せつけた。

 また海外、インディアナポリスで活躍する大岩千恵子のキトリは、最後の回転においてその実力とパワーを出し、かつディテールも感性の鋭さを現していた。

 

●ヤノベケンジ展@豊田市美術館、2005.8.13

 アトムやメカ、近未来に惹かれ、万博のあった世代として、ロボット的なものを作りながら、チェルノブイリ、放射能、環境破壊などの批判精神をそこに入れた作品は、巨大さも含めて、インパクトがある。

 

●ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」タイニイアリス、2005.8.14

 従来の舞台をすべてなくして、中央に浅い池と皮を剥がした生木などを組み合わせて、陽の当たらない森林の奥などの暗い雰囲気で、水が滴り落ちている。そこに夫婦が新婚旅行に来るが、棲みついた木こりたちに襲われるところから話が展開する。木こりのメクラの老人、出歯のおかみ、夫を襲う小学生、木こりの息子の知恵遅れのバイオリン弾き、教師、クラブでクスリをやる若者などが次々と登場し、話は混乱を極める。すべてミュージカル的に歌いながらセリフをいい、組まれた木を役者が走りまわる。観客の大半はその足場のような木にもたれて立ち見。カッパが配られ、水と血糊、ミミズなどが飛び散る。朝鮮差別やいじめ、暴力、セックス、ロリコンなどが要素となり、混沌とした状況だが、すべてごった煮を、強い批判精神が貫いている。差別する者が同時に差別され、される者が差別してという多層構造が表れる。朝鮮差別のなかで、ヤンバンとチョンパリという言葉が出てくるが、川原乞食として差別される韓国の被差別民の話を舞台に載せたのは、初めてではないかと知人の演劇評論家は語っていた。

 

●冴子&冴子だんさーず「Veil」「Lexell's Comet」「スミレの花をあなたに」麻布ディプラッツ、2005.8.14

 モダンダンスというよりも、ジャズダンス、ショーダンスの世界。クラブのショーとしては楽しめる。最後の作品はちょっとモダンダンスしており、みんなテクニックがあり、ダイナミックなのだが、それを披露したにとどまった。柴崎健太という若い男性ダンサーは、コンテンポラリーにストリートを入れた動きもできそうで、ちょっと惹かれるところがあった。

 

●ダンス白州、2005.8.15,16

15日畑の舞台

森山開次

 始まる前から手前の畑、茶色の砂状の土の上をゆっくりと歩み、先のもう少し土の荒い畑に進む。上半身裸体に黄色い長髪、下はパンツ。そして戻って踊りだす。足の不安定さを意識しながら、倒れ暴れる。やがて奥の草の生えた中に入っていって消える。再び登場してそこで暴れるように踊る。さらに戻ってきて踊る。

 元来スピーディで激しい踊りが特徴だが、この足場に足を取られ、また自然を感得しながら踊ろうとしてる。小手先の技をあまり見せずに素直に踊ろうとするところがすがすがしい。

正朔

 どてらのようなものを着込んで真中から登場。すっくと立つ姿は力がある。そしてゆっくりとさまようように踊りだす。あるいは倒れて土にまみれる。手前の畑で一通り動いて奥に移動しながら、着物を脱いで行く。その脱げるところから、さらに口で着物を噛んでひっぱり、もだえるようにして倒れて、そこから立ち上がり天に向かって両手を差し伸べてふらり、ふらりと揺らぐ瞬間は、舞踏の力を感じさせるものだった。着物を脱いだときに、上はボロっぽいものだが、下が普通のパンツなので、これは下着などであったほうがいいと思った。

長谷川恵美子

 奥の畑の向こう側をゆっくりと動いてくる。明らかにこの地面の歩きにくさに戸惑っている。しかしその容易に動けないところを踊りにするというものではない。普通の体と普通の動き。足場の悪いなか、そこでうろつく存在。しかしその普通さが一瞬輝くときがある。

 

16日水の舞台

康本雅子

 水の舞台は畑の奥の小川のそばに作られた、深さ20センチほど、8m×20mほどの周囲を鉄板で囲ったオブジェである。原口典之が美術作品として作った。彼は円形や四角いこういったオブジェに重油を張った作品で知られる。ここではそれを自然の水を流しこんで浅いプール状態にした。長方形そのものではなく、途中で曲がり、菱型を二つ組み合せたものにちょっと近い。奥は角が鋭く、地面からも50cmほど上がり、こちらから見ると美術作品という印象が強い。今回はここで2人の舞台を見た。

 康本雅子は青いレインコートに白い兎の耳を付け、フライパンと袋を持って登場。周囲をうろついて中に入る場所を探すようだ。そして途中にしゃがみ、フライパンを置いてそこに卵を割り入れる。この暑さで目玉焼きができる、という発想か。すると「コラッ」という声で慌てて耳を取って水に入って横たわる。いきなり大の字になって水のなかにある青いレインコートが印象的。置きあがってレインコートを脱いで踊りだす。舞台の奥のほうでぴょんぴょん跳ねたりと兎をイメージする動きから、次第に自由な動きになっていく。しかし水をさぐり楽しむ感触を忘れない。ショートパンツとシャツだけで踊る。弾けるような踊りや空間を求める動き。そして水に浸かって這う。

 手前のほうはぬかるんだところだが、そこに来ると再びレインコートを着て足で探るように移動したかと思うと、激しく跳ねだす。ぴょんぴょん跳ね、ショートパンツも下がるが気にせずに踊る。そして横たわり、コートのまま奥に張っていく。脱いだコートを腰に巻き付けて、奥に立ち、向こう向きで上半身裸になり終る。

 野原で跳ねる兎が遊び、盗んだ卵で料理料理、慌てて飛びこみ、水と戯れ、るんるんるん。ウサギのダンスというモチーフを水の上で展開する。前半はゆっくりとした動きからどんどん展開し、康本独特の早いお茶目っぽい動きも混ざるが、全体としては自然と水のなかで探りながら踊りを作っていく、インプロのいい部分が立ち上がった。水、風、小川の音、蜻蛉や虫などすべてが音楽と背景になり、健康的に伸びた肢体が示す自然なエロティシズムが、欲望的ではなく美しいものとして水の舞台に展開した。

木村由

 白いワンピースに帽子、夏のお嬢さんスタイルで奥から水に入ってくる。しかしエンジの布を持ち、それを水に何度も叩きつける。持ち上げると布は洋服。別の女、もしくは自分自身に対して憎しみをぶつけるようだ。そして水に帽子を浮かべ、水の中に倒れていく。20センチほどの深さのため、半身が映りなんとも印象的。康本とは対象的にゆっくりとした動きが、しっとりと染みてくる。また立ち上がり、静かに手前まで動いてくる。そして倒れ伏してしばらくして、起きて帽子を被る。

 一枚の衣装と帽子というモチーフだけで物語的な空間を作りだし、ゆっくりな動きが惹きつける舞台だった。

 

●鈴木ユキオ、金魚「ミルク」麻布ディプラッツ、2005.8.16

 黒い舞台の下手奥に白い板に「僕は3回不器用だった」という文章が掲げてある。暗転すると四つん這いの男が2人、鈴木が立つ。そして2人はユニゾンで体を動かす。それを鈴木が蹴る。と暗転して鈴木のかわりに女性。舞台には床と壁面に白いラインが少し。美術的なイメージ、抽象的な背景はこの舞台内容にも関わる。基本的に3人、2対1という関係でタイトな動き、特にユニゾンは完全にかっちり振り付けられている。そして白板の文字が消されると、それは大きい机。重たいそれを鈴木が持って倒し、自分もそこで机に絡んで倒れる。この音と動きが暴力的に響き、一方で踊る2人を侵食する。ノイズ系の音も適度。しかしそれがメロディックな曲に変わると、タイトな動きがコミカルにも見えだす。するといつも鈴木が行う、ダンサーたちの独自な動きの時間、例えばアシミネのソロなどが登場する。しかし溶きにそこにはみ出す緊張感。ダンサーたちが登場してエンディングっぽく見せながら再び抽象的に終るやり方など、作品の質とパワーは高い。長いコードの照明をオブジェ的に使ったりと美的な構成でありながら、暴力性と動きによって身体がしっかり感じられる舞台だった。

 

●玉野黄市「舞踏ってなあに」神楽坂ディプラッツ、2005.8.18

 玉野黄市はしばしば玉に入る。直径2.5mほどの透明の球体に入ってその中で踊る。和風エスノの衣装でこの中で動き回る姿は、なかなか楽しい。そしてそこから出てきて時に高下駄などで踊りだす。今回、球の周囲にダンサーたちが舞う。妻弘子を始め舞台に何度か立っている人々が中心なので、しっくりとまとまった展開。構成力、見せ方が確かだ。外人男2人も独特のキャラを呈していた。しかしここにゲストで工藤丈輝が入るのと入らないのでは、たぶん舞台の印象がだいぶ違う。工藤の存在感と激しい動き、動物的ともいえる力がともすれば緩くなる可能性を排除し、サビを与えていた。特に背後を見せて立つ工藤の力はやはりなかなかなものだ。動物振りがちょっと過剰とも思えたが、それでも舞台をしっかり締めていた。音楽もテープにバイオリンの生音が入り、テンションを与えていた。

 

●「Study of live works 発条ト」六本木バレット、2005.8.20

 このグループはダンサー白井剛、音楽家粟津裕介らによるユニット。最近白井のソロ、伊藤キムとのデュオなどの活動が目立ち、。関わっているダンサー、森下真樹も独自の活動を展開している。

 今回、粟津を中心とした音楽ライブにダンサーたちが踊るという企画だ。白井以外は、彼が出会った外部のダンサーたち。振付があるわけではなく、音楽に合わせてインプロ、フリーに踊るというもの。それがかなり刺激的だった。

 梅田宏明は横浜コンペティションなどで注目され、海外で主に活動している。久しぶりに踊りを見たが、その独自性、そして独特のテンションは存在感が強い。ストリート系といえるカクカクした動きに、たくましそうな体格の重さ、緩い動きにも惹きつけられる。

 小川奈美子はギャラリーなどで踊っているというが、激しく体を振動させ、そして壊れた人形のようなガクガクと関節が崩れるような動き、いわゆるダンス的ではないが、抽象的というよりもやはり踊りだ。この動きは場面がダンス的、バレエ的になったときに入っていくると、いいサビになっていた。

 小沢剛はいまはレニバッソなどで活躍するダンサー。バレエの基礎があり、自在に動く体の魅力がすぐ感じられる。わざとトゥシューズを履いて回転するなど、茶目気がある。 清家悠圭は、Noismで注目されたダンサー。小さい体を生かしてさまざまなテクニック、金森壌によるテクニックを見せるが、何より、踊る喜びを素直に出し、弾ける身体が輝いている。小沢と清家が戯れて踊る姿はライブ、セッション的な楽しさを醸しだした。

 そして白井剛。体を斜めに傾け、独特の崩壊感、厭世感のあるような動き、けだるげな姿勢から、急に加速して激しい動きに行くと、目が離せない。特に一瞬見せた跳躍は、斜めに傾いだ体とともに目に焼きついた。凄い。そして倒れる姿、「質量」の過激な倒れではないが、それでも素早くインパクトがある。途中マイクを持ったり自由、リラックスしたところが多かったが、それでも「入る」と白井は凄い。

 

●劇団健康「トーキョーあたり」本多劇場、2005.8.23

 ケラリーノ・サンドロビッチがナイロン以前に主宰していた劇団の15回公演として、12年振りに舞台をつくった。

 役者はナイロンに重なる人も多く、みのすけ、犬山犬子など芸達者が揃った。市役所職員が世界征服をたくらむのと、地方の両親が東京の息子を訪ねる二つの物語が錯綜して進み、それぞれの虚構性が暴かれるなど、ケラらしい展開だが、その物語を映画の脚本として書いているという外部、さらに松尾スズキらに対する揶揄などを入れたために、観客の視点がちょっと散漫に成らざるを得ない。それも意図の一つなのだが、中に散りばめた重いモチーフが、モチーフにとどまって、異化する要素として機能しなかった。とはいえ2時間半気がつくと過ぎているという、飽きさせず楽しめるケラらしい舞台だった。

 

●La Manga@brick-one、2005.8.24

 メキシコのマリオ・ヴィラとガブリエラ・メディナによるグループ。マリオがビデオ・アートなど、ガブリエラがダンスを担当する。白い上手側の壁に映し出される映像は、線によるモノクロームのアニメ、そこに赤い色が入る。メキシコや欧米での事件の場面などがコラージュされている。ガブリエラは踊りながら、時折声を発し、場面場面の展開で、インターバルを入れながら、ダンスに入る。身体が独特の強い筋肉、中背だが存在感のある動きを見せる。

 

●ボクロール@神楽坂ディプラッツ、2005.8.25

 ボクロールとは小浜正寛の「ボクデス」と矢内原美邦の「ニブロール」が合わさった形。ただ合同で一本ではなく、小品をいくつかという形だ。

 「chocolate」は昨年の吾妻橋ダンスクロッシングスに続く矢内原と佐川智香のデュオ。これは動きの遊びと争いがうまく混ざり合って、見応えがあるものだった。

 小浜の「メガネデス!」はメガネのネタによるダンスともコントともつかないものだが、この独特のズレた感じが面白い。緩いコントとして拒否する人もいるだろうが、この受けそうで受けないところを狙うという戦略は、宙ぶらりんの魅力がある。この二作をニブロールの高橋啓祐の映像がつなぎ、バラバラでも連続性がある作品に見せている。

 ゲストとして出たオーストラリアのルーク・ジョージはニブロールのメンバー石立大介の出演作品で、電車に乗る人と切符というコントダンス風のもの。コントといっても日本のコンテンポラリーダンスのというより、欧米のショーコントっぽい。このように人が重なりあったり、映像などで全体を一つのものにするというのは、興味深い方法だ。26日、27日はたかぎまゆ、康本雅子、伊藤千枝などが客演したらしい。

 

●迷わずダンス2@pit/北区域、2005.8.26

 ヨシモトヒロコはパソコンのキーボードを傍らに置き、糸に巻かれながら苦しむというような、ちょっとモダンダンス的な感じがするネタだった。何かを意味しようと意図すると演劇的になったり、ちょっと古い感じになる。ただ意味もなく糸に巻かれて踊り続けるだけのほうが、踊りが伝わる気がした。

ノシロナオコ

 自分の横たわる場所をチョークで記していき、空間を枠取りながら、踊る条件を作る。このやり方はまずくはないのだが、その後、散乱する小物を回避しながら踊る動きは、もっとテンションがほしい。

白井さちこ&奥田純子

 野和田恵理花の振付による作品。背の高い奥田が髪を乱して「サダコ」のように踊り出すと、ちょっと笑いも起こった。そこにちゃぶ台を背負った白井が登場する。白井は実に巧みで体のよく動くダンサー。そして小さい。このデコボココンビというコントラストが絶妙で、2人の絡みがなんとも見応えがあった。これからもどんどん作品を2人で作って欲しい。

 

●練肉工房「女中たち」麻布ディプラッツ、2005.8.27

 ジャン・ジュネの傑作を男性だけ5人の出演、岡本章が演出した。笛田宇一郎がさすがに力のあるセリフまわしを見せる。四角い舞台の周囲に椅子を置き、そこから数人ずつ登場して会話をする。身振りなどの演技よりも、むしろ身体がしっかりあって、強い言葉を発話することを意図した舞台だ。しかし面白かったのは、数人が輪になったりさまざまな位置関係をとりながら、図形的に位置を構成して話すところ、そして笛田の緊張感のある動きは、かなり舞踊的なイメージが残った。

 

●迷わずダンス2@pit/北区域、2005.8.27

谷よう子

 谷はヨーロッパで活動し日本ではワークショップなどでほとんど公演を行っていない。そしてフォーサイスのところでチューターを務めるなど、そのテクニックは定評がある。冒頭の仮面をつけて踊る場面だけで、それは十分感じさせる。そして声が谷よう子のネット審査という名目で、谷に踊る意味について、踊りで表現するようにという注文をつける。それからの踊りもよかった。しかし布を巻き付けて踊るところ、踊る意味とはと自問するネタなどは、演出としては見せるが、内容としてはあまり意味がない。なぜなら踊ることの葛藤、踊る意味はおそらくすべてのダンサーが壁にぶつかるたびに考えることであり、谷固有のものではないからだ。いわずもがもなのことを説明的に演じてしまうとき、それは求める問いから離れて行くのではないか。愛を表現するときに、「愛を表現します」といって踊るようなことになっている。それよりはただ、音楽があり、それと対話するように、あるいは無音で淡々と踊りつづける、そういう行為が踊りを問うことになるのではないか。

喜多尾浩代

 白い小さい綿の詰まった袋の集積、上に新聞を乗せたオブジェが舞台に一つ。そして静かに一部が動く。着ぐるみオブジェのようになって始まる。最初の10分近くその状態でうごめき、新聞をかじって咀嚼するところはいい。そこに坂本弘道のチェロが入る。といってもノイズっぽい音を打ちこみとパーカッシブな奏法で出す。それに反応したりしなかったり、舞台を動き回り踊るところも

ダンステクニックが着ぐるみで制限されているために、引きつける。後半でトマトにかぶりついた状態ナド、チャレンジャブルなところを評価したい。

 

 

●ART LABO 2005@BankArtNYK、2005.8.28

 横浜トリエンナーレ応援企画ということで、横浜のアーティストたちが集まってほぼ一週間、イベントを繰り広げた。美術展示と映像、ジャズ演奏と舞踏、ダンスなどが毎日違ったプログラムで展開した。

 最終日はジャズのセッションと黒田オサム、福士正一の舞台。尾山修一と松本健一、ガンジーのサックス、リード楽器と野村おさむのパーカッションはフリーだが、たぶん一般の人にも受け入れられるテイスト。

 黒田は門付け、つまり各家を回って芸を見せて金を得る、乞食芸ともいえるホイト芸を50年続けている。元々門付けで食いつなぎ、それが芸として、パフォーマンスとして成立しているという日本では稀有な例だ。74歳の老爺という雰囲気と素朴、ひょうきんな芸は素直に楽しめる。しかしこの年齢で足は高く上がるは腰だけで移動するはさすがに鍛えられ、培われた芸は凄い。

 福士正一は山形の舞踏家森繁哉に1年学び、青森で自分の踊りを追求して30年。舞台よりも農家を回って老人、人々と対話しながら踊ってきた。道路劇場オドラデクという名前はカフカが重なるが、路上、フィールドで踊るという姿勢は黒田にも共通する。韓国との国際プロジェクト、バヌアツで踊るなども、劇場よりも人々のなかで踊ることに主眼を置くという点で稀有な舞踏家だ。

 黒い紋付に白塗り化粧で踊る姿は日本的といえばそうなのだが、むしろ土、地面を踏みしめ歩むということから発した踊りを展開する。黒田のホイトに重なって入っていくとき、非常にうまく絡むさまはこれ以上はないというコンビネーションだ。細目にして現実から離れたような表情、表情を壊して踊る姿、動きも確固たるものがある。しかし揺らぐ。

 次に赤い衣装で登場して脱ぐと花柄のような派手さ。戯れながら登場した白い半透明な紙を束ねて抱える姿は素晴らしい。さらに黒い上下に白いシャツ、モダンな扮装でちょっと洋風に踊る。このコントラストもいい。

 師事した森繁哉は土方の弟子ではない。山形であるフェスティバルのときに、むしょうに踊りたくなり、走りまわった。そこから踊りを始めた。そして彼の踊りを見た人から土方を紹介されて会った。しかし彼はそれからも地元山形で踊りつづけている。そして福士も1人青森で踊っている。土方の虫おくりなどを青森で行い、田中ミンや元藤あき子、玉野黄市などを招き、舞踏家同士の交流を行っている。これまでに弟子はいるが踊りはソロ、それも街頭で踊ることが主なコンセプトだ。ここには舞踏の源流の一つ、土方が求めた踊るということへの問いそのものがあるような気がする。

 

●金沢舞踏館/Theater ASOU「変身」麻布ディプラッツ、2005.8.30

 重い音楽とともに19世紀絵画やゴヤの登場人物のような西洋人たちが7人、奇妙な表情をして舞台に登場する。この雰囲気、タデウシュ・カントールのような黒く暗い欧州の匂いが漂う。よく見るとそのなかには東洋風の顔もあるがほとんど混ざっている。ゆっくりと移動し、よじれた表情を見せる。一時はけていた東洋系、日本人の男女がそれぞれ舞台を横切り、あるいはソロを展開する。ピクニックの場面、嫉妬するような場面など、演劇、無言劇的な感じもある。オーストリアの劇団ASOは、実験劇や舞踏、シェイクスピア、ジュネや子どもの劇も行うなど多彩らしい。それが縁あって金沢舞踏館の山本萌と知りあって、作品を作り上げた。演劇集団との制作のため、演劇的舞踏ともいうべきものに仕上がった。

 見ていてカフカっぽいなあと思い、そうだ「変身」をやるって書いてあったっけと思った。虫になったザムザそのものを描くのではなく、全体でその不条理感、奇妙さにはまり込んでいるところを、丹念に構成したという印象だ。背後の扉は「門」、扮装も20世紀初頭の欧州ぽく、アフカ的な匂いが漂う舞台だ。

 オーストリアのグランツ、ウィーンの北の中都市で活動するこの劇団は、もともと欧州でブラジル人演出家が始めた民族的演劇というか多民族の要素を取りいれた演劇が源流だという。そして政情不安なガテマラを逃れてパリなどで活動したプロデューサーを立てて、この劇団は始まった。その後彼は日本に来て金沢に住んだことから、山本萌の交流が始まった。山本萌は土方巽のアスベスト館を経て、金沢舞踏館を設立以後、金沢で活動を続けている。そしてASOとの交流からグランツでワークショップなどを始めた。グランツには芸術をサポートする財団があり、それまでも舞踏家を招いていたが、山本萌からその活動が深まった。

 

2005年11月18日

「2005年7月の舞台評」

◆2005年7月の舞台評

 

 ミニ批評のサイトが2カ月期限なので、載せられなかった7月の舞台です。

                         志賀信夫

 

 

●手塚夏子、御之道似奎@pit/北区域、2005.7.6 手塚夏子はやはり特異なダンサーだ。自分の身体ということにどう入ろうか、中はどうなっているのか、身体は何かなど素朴かつ根源的な疑問をいつも踊りつづけている。

 昨年の今ごろ確かトヨタアワードの日に吉祥寺で踊り、こぞって駆けつけたという記憶がある。アートカフェで椅子に座った男女のダンスというか手塚の振り付けがあり、そのあと手塚自身が膨らんだ腹の前に手製のロール式紙芝居のような紙にマジックで、受精から今に至る絵を描いていた。そのときの子どもが今度の舞台に登場した。

 3畳分のゴザに子どものおもちゃ、小さい御膳と浮き輪、ウクレレなどが散らばるなか、1歳に満たない子どもとジーパンTシャツ姿の彼女が遊んでいる。そこからダンスになる。でもダンスになるようなならないような。というのは、子どもが茶ぶ台を倒し危険が感じられるとそちらに彼女の意識、動きが引きずられ集中できない。だがこの集中できなさは何がしかのものだ。手塚は自分の世界、自分の体に入って踊ろうとする。しかしその体から出てきたものが、手塚の意識を妨げる。目の前にある子どもも彼女の体自体でもあったし、いまは別の存在だ。懐胎し妊婦であることは手塚のようなダンサーにとっては非常にシビア、リアルであり捉え方によっては危険なことだ。しかし子どもと一緒に舞台にあがることで、それを手塚は乗り越えようとしているように思えた。もう少し大きくなって勝手に歩き回ると、観客席に向かっていったり、いろんな展開がある。そういう段階を含めて手塚は挑戦しようとしていくのか、これからが楽しみだ。

 ミノトウニケの体と動きはしっかりしている。面白い。舞台になる身体だ。特に冒頭登場し、その後も繰り返される壁を背にして立つ姿は素晴らしい。背中に箱をしょって執拗にこだわりながら踊る部分も強いものが感じられた。しかしその後、舞台を離れて上の階に上がって踊り、戻ってきて新たな箱を並べる行為は、何も面白くない。儀式的あるいは美術的なパフォーマンスを意識しているのだろうが、次の行為が予測されてしまうものを舞台に載せる必要はない。そのリフレインが何かを生みだせばいいのだが、それがまったくなかった。さらにその箱を美術セット的に使って、椅子として座り踊りだすことは、箱にこだわることの意味を壊滅させる残念な行為だった。

 

●室伏鴻・ピエールダルド@赤レンガ、2005.7.8

 どちらも個性的なダンサーの共演で期待した。中央に大きな御簾のような囲われたものがあり、そこに時折映像が映る。それぞれ別の形で登場しながら、次第に混じり合っていく。2人ともある種のユーモアをもってインプロで作品を作っていく感じだ。

 特に綱引き状態や暴れ出すところ、ともにチュチュをつけるところなど、かなり魅力的だった。

 

●トヨタコレオグラフィーアワード2005-1@世田谷パブリックシアター、2005.7.9

・岩淵多喜子「Against Newton」

 中央後方にパイプを組み合せて作った円柱が天まで伸びている。一人が掛け声でもう一人の動きを制御する。それが相互的になる。そして次の場で岩淵が加わり、3人で踊る。テクニックはあるが既視感もある動き、それが全員が横になってからの踊りがとてもよかった。横になって踊りのボキャブラリーをここまで多様に示した舞台は、ほかにないのではないかと思えるほどだ。立ちあがっても、また倒れ続ける。踊りが立つことから始まることと、重力、それでタイトルのニュートンだろうが、わかりやすすぎる。タイトルはもう一つ離れるべきだ。踊りのバリエーションは多彩なのだが、全体としてはトーン、踊りの色が変わらないため、インパクトが弱い。さらにいえば倒れること自体も、例えばBATIKや白井剛などの極度な倒れに比べると、技術と見えた。中央の円柱は、たぶん上方への方向とか天地を繋ぐものという意図だろうが、デザイン以上には思えない。例えば中で風船が浮き上がるとか、水が出るとか、なんか仕掛けを加えて、踊りの技術性、完璧性を打ち破るものがあれば、オブジェが意味を持ったかもしれない。

 

・黒沢美香「馬をきき」

 白いパンツスーツの上からラメと黒のパンティを履き、黄色い長靴(これが秀逸)を履き、サイドライトを浴びながら登場。縄を持ち馬を曳いているようなそぶり。そして上手から行きつ戻りつのステップで、下手に行く、この動きがまず魅力的。黄色い長靴のステップは、たぶん見た人の網膜に、鮮烈に残っているだろう。縄を動かしながら踊る、上半身の踊りのバリエーションも本当に多彩。一つとして同じ動きがないように思えるほどだ。照明もシンプルで、音楽の変化くらいによって、後は淡々と踊り、長靴を脱ぎ一瞬ダンステクニックを見せそうになりながら、そうしない。ストイックなのに饒舌、饒舌なのにストイックというダンスを踊れる人は、黒沢美香にいないだろう。

 

・鈴木ユキオ「...やグカやグカ呼嗚...」

 白いテーブルと白い椅子。2組の男女と鈴木自身が踊る白い舞台。2組ずつ、あるいは3人組などの取り合わせでさまざまな動き、踊り、会話が舞台になっていく。男同士が次第に議論していくさまや、争う様子、男女が誘惑的な踊りを作りながら、途中で男が入れ替わるなど、非常に多様なバリエーション。暗転で新しい場面が展開するが、何が出てくるかワクワクしていた。決して難しいことをやっているわけではない。しかしよく練られた動きは、ネタからダンスに変化している。対話と喧嘩などかなりベタでリアリティがあるのに、舞台がダレない。暗転が多いが、ちゃんと場面が切り替わる。持ちだされる青いバケツも印象的。喧嘩になってバケツを投げ壊すなど激しい身振り、天から突然振るバケツなど、インパクトもあり、白に対するコントラストも美しい。

 これまで時に緩く見える鈴木の舞台が、今回はしっかり締まってまとまり、完成度が高い。ただ鈴木のソロは非常にいいが、ちょっと長すぎて、全体とのバランスが気になった。

 しかし、そうはいいながら、混沌、乱雑性を持ちながらも、非常にしっかりと作られた印象があり、とてもレベルの高い舞台だと思う。

 

・隅地菜歩「それをすると」

 中央の横長の二人がけのテーブルに、こちらを向いて男女がいる。下手に一つ書斎セットがあり、男がそこでさまざまなリコーダーなどを吹く。ダンスは二人が小さな動きを作り上げていくものと、女性のソロなどで、暗い中にテーブルなどが浮かび上がり美しい。ただ陰影が強すぎて、ダンスの動きではなく静的な作品のように思えるときがあった。リコーダーをいくつも吹いたり、現代音楽的、バロックなどの工夫はあったが、音源が一つのためかイメージが広がらず、音楽、ダンスともにほとんど同じトーンで終始したという印象だった。尺八にも思える東洋性が出すミニマルっぽさが、ダンスとマッチしているが、それによって何かインパクトを受けるというところはない。このように一度作っていたものを壊していくと、舞台がもっと立つかもしれない。

 

●イシデタクヤ@pit/北 区域、2005.7.9

 トヨタアワードから行ったので、冒頭を見逃したが、ビニール傘を持って踊る場面から見た。下手にシンバルなどをいくつも床に置いた音楽家が座り、叩いたり鳴らしたりする。イシデは下半身に黒い布を巻いただけの姿で力の入った舞踏を踊っている。時にアジアの宗教儀式のような動きなど、飽かせない。パーカッション、シンバルの音が激しくなると、イシデも過激に暴れ、2階に上がってきて、わめきながら2階の吹き抜けの手すりから舞台に落ちたときには、観客から拍手が起こった。しっかりとした身体性で魅せるイシデは、海外、屋外での舞台も多いが、正統的舞踏手という印象が強く残った。

 

●トヨタコレオグラフィーアワード2005-2@世田谷パブリックシアター、2005.7.10

・新鋪美佳(ほうほう堂)「るる ざざ」

 舞台中央に白い四角い「道」を作り、女性二人がそこの上だけで絡みながら踊る。お互いに相手の動きを引き受けて次の動きを作る方法は、コンタクトインプロではなく細かく振り付けられた技術が感じられ、かつ相手を乗り越えたり倒したりくぐったりと、ダンスらしからぬ動きで、四角い枠を移動しながら踊っていくという抑えた発想がいい。限られた空間で踊り動くことで動きの精度が高まっている。この二人は基本的にこういった独特の絡みで踊りを作るのだが、以前に見た舞台よりも格段に上手さを感じた。しかしそれが中央の空間に入って作りだすと、動きのバリエーションに対する詰めが浅いような気がしてきた。というのは違う動きをしていても、同じようなものを見ているという既視感が強くなってきて、率直にいえば飽きてくる。音やイメージが変わろうと、それは超えられない。これを壊すには、まったく違ったタイプの場面の挿入か、あるいは線の上を動くのとは別の不自由さを、自分たちに課して踊るなど、ダンスの位相を変えるということが考えられる。技術が増すに従って、観客にとってはマンネリにもなりうるということは、意識したほうがいいかもしれない。

・岡田智代「ルビィ」

 茶っぽいワンピースにハイヒール、シンプルなよそいき風の四十台女性が、パイプアームのおしゃれっぽい椅子を引きずって登場、そのまま舞台をずるずる引きずり歩き出す。四角く一周し、今度は左右に舞台を川状に往き来する。舞台全体をそうやって回ってようやく、中央に椅子を据える。そうして椅子に乗る。するとアバの「ダンシングクイーン」が鳴って踊りだす。普通のヒール靴だが、薄めのクッションがある椅子の上で踊ることは不安定極まりない。足は使わずに上半身、両手と腕が中心のダンス。ただこれが半端ではない。音楽のリズムや展開をまったく無視して踊る。自分のなかの音楽で踊るのか、あるいは意識しながら無視した動きを作っているのかはわからない。だがこれが真っ暗な背景に左右からのサイドライトでくっきり浮かび上がり、目に焼きつき始める。大して難しい動きではない、なんとも表現するものでもない。しかし目が離せない動きを作りだしている。バレエでもモダンでもない、強いていえば舞踏に近いといいたくなるほど、体から発した踊りに見えるのだ。かつて岡田が別のところで、上半身だけのダンスを踊るのを見たことがある。そのときのほうが動きにバリエーションはあった。椅子の上の不安定さが、その多様さを許さない。しかし僅かな差異でも、そこに観客が集中すれば、それは小さなものではなくなる。観客にとって大きなものになる。

 音楽が止むと椅子から降り、椅子を斜めに立ててクルクル回す。特に意味もないこの行為が、その前のダンスによって奇妙な意味をもってくる。そして椅子に前を向いて座る。しばらくじっとしているように見えるが、ずるずる傾いてくる、そして尻から床に降りる。

 モダンダンス出身で10年のブランク、20年ほど人前では踊っていなかった。そしてどうしてこういう踊りを作りだしてしまうのか、それがなんとも不思議だ。年齢を経て美しい身体、ダンス的身体ではないが、そのダンスが僕たちをとらえる。これは本当に素晴らしい。これが170件の応募から8つのなかに勝ち残り、多くの人に強い印象を与えたこと、これだけで、今回のコンペの意味はあったと思う。

・岡田友規「クーラー」

 サラリーマンとOL風の男女が舞台の前で話を始める。男は、日曜の朝などの討論番組がいい、ためになるという話。女は会社のクーラーが寒い、いつ変えても設定御度が23度強風にされていて、寒くて耐えがたいという話。これを執拗にする。お互いに相手の話にうなずき、男は女の話に合わせて答え始めるが、ピントがずれている。そして話しながら、それぞれが手足などでさまざまなしぐさをする。知りあいと立ち話をするときに出てくるような動きが、誇張されて繰り返される。話も誇張されて繰り返される。

 実に内容といえばそれだけのシンプルなものだが、それが執拗な言葉のリフレイン、動きのリフレインで、それが少しずつ変わり、また戻るなど、二人の言葉と動きという四つの要素だけで、差異が惹きつけるように作られている。二人の場所が四角いスポット、他は真っ暗という何もない舞台。そしてひとしきり会話?としぐさ?が過ぎると、背後に移動して、そちらにスポットが当たる。では場面が変わるかという予想を裏切って、また同じネタが続く。相手に触れずに、言葉と動きで絡むような絡まないような、話がそれぞれでずれていたり会話になっていたり、という奇妙な世界だ。そしてさらに奥に移って同じ会話がしばらく続く。そして会話が続いて聞こえるまま、二人は前に出てきて挨拶する。流れていた最後の会話は録音だったことがわかる。

 前のヴァージョンでは会話だったようで、ちょっとした改作が、アクセントになった。

 岡田の舞台を見ていると常に共感と反発がある。共感は、まさに僕たちの会話はこうだ、とか、こんな身振りを実はしているということに気がつくところ。私たちも、対話がずれていたり合っていたり、そして無意味なしぐさを特に立ち話のときなど顕著にしている。それをかなり誇張し、無意味度を高めたしぐさ、それが身振りから一つのダンス、パフォーマンスのしぐさ、独特の動きになっている。

 会話や言葉も元々あまり楽しくない、無意味だが発してしまうような会話が中心で、それがリフレインされることは、不快感と笑いが入り混じった感覚を抱く。この手法の巧みさは、類がない。

 岡田は横浜のSTスポットでかつてスタッフをしていたこともあり、新しい芝居とダンスが立ち上がる場面に多く遭遇している。しかし見ていればできるものではなく、岡田のイマジネーションは、そこからかなり高いところで、独自に働いているようだ。

 今回の最終審査では、その振付性、そして言葉が先にあって作品ができているという、演劇とダンスという視点から問題になったとも聞く。しかし、もはやダンス自体がいわゆる定型の振付を遥かに超えており、またダンスからの演劇、パフォーマンスへの侵食、演劇、美術からの侵食など、さまざまな形で作品が生まれている現在、もし新しい作品と作者の可能性ということを主眼とするのであれば、演劇かダンスか、あるいはどちらが先かを問うことは、作品という結実に対して無意味であり、また振付を問うのであれば、振付とは何かということに、もっと多くの議論なり視点がないと、説得力に欠けるのではないか。

・宇都宮忍、戒田美由紀、合田緑、高橋砂織、得居幸、三好絵美「kNewman」(yummydance)

 ヒールを履いた女性が6人、舞台手前にスポットを浴びて立ち、震えながら体を歪ませていき、そして一人一人と倒れていく。そしてそのまま、両足をこちらに向けたまま奥に這いずっていく。ちょっとエロティックで、これはなかなか面白い。そしてそれぞれが起き上がって、二人づつユニゾンで動いたり、バラバラだったりと、さまざまな動きを作っていく。左右、斜めに走って行ったり、去って行ったりという動きなど、見ていて飽きさせない。さらに下手に去った一人が黒いゴミ袋に入り這いずってきて、出て、もう一人を押しこむ。中央奥には長い布が2枚、真中にスリットが入ったように下がっており、その背後に2人が入って、足のみ見えたりと、シンプルながら見せる舞台だ。

 しかしゴミ袋から女性たちの脱いだハイヒールが出てきて、女性たちがまた履いて、さらに最初と同様に同じ位置に戻って、痙攣していくというエンディングは、予定調和的でまとまってしまった。ゴミ袋も、道具として使うのではなく、それが自分たちの体を変えるものになるような使い方が考えられないか。何人も詰めこんでしまうとか、みんなゴミ袋にそれぞれ入っているとか、単なるサビとしてではなく、何かを破壊するようなものとして使えば、もっとインパクトがあるだろう。

・選考結果

 オーディエンス賞は9日は鈴木ユキオ(金魚)、10日は新鋪美佳(ほうほう堂)に贈られた。そして次代を担う振付家賞には、隅地菜歩が決まった。

 審査は選考委員が約170本をビデオで選考し、8組の最終ノミネートから、日本人2人、カナダ人、米国人と委員長の五人による審査委員会で決定された。オーディエンス賞は観客の投票による。

 複数の情報による審査経緯を「推測」する。はそれぞれ2点ずつ選び、2人が隅地を1位、岡田利規を2位、そして岡田が1位、2位が鈴木と1位鈴木2位岡田が1人ずついた。そこで岡田か隅地か意見が分かれた。振付家賞ということで考えると、岡田の作品は劇作としてまず言葉が先にある点で差異があるのではという意見が出て、この結果となった。

 これはいくつかの問題をはらんでいる。まず振付とは何かという問題だ。今回もソロによるダンスがあったが、例えばソロの即興性と振付との差異ということは外からは判断できない。振付では、基本的に再現性ということが問われるが、かといってそっくりそのまま踊れる振付は、偶然性を廃し、保守的になり、レパートリー、あるいはショーダンス的になる。またダンサーの振付は基本的に自分の動きをもとに人に振り付けることが多いので、かっちりとしたダンス譜にでも頼らなければ、曖昧なのは当然である。

 そして演劇とダンスの差異だ。最近日本の舞台では、タンツテアターの流れ、ピナ・バウシュ、イリ・キリヤンなどの影響もあり、ダンスのなかに演劇的な要素、セリフや言葉などが入ってくるものがある。また、演劇のなかにダンス的というか、独特の動きを入れるものもあり、また動きを振付家に依頼する場合がある。つまりダンスと演劇がある部分では侵犯し合っているといえる。そしてその代表的な存在が、岡田利規だ。チェルフィッチュという劇団を主宰し先般岸田戯曲賞を長塚圭史と同時にとった。長塚は大勢の観客を集め、一般的に知られているが、岡田は小劇場での地味な活動だ。しかしその言葉、繰り返される言葉が若者、人々の心理の諸相を描き、時に観客を不快にするほど思索的、挑発的、挑戦的な戯曲であり、その上演には日常の動きの誇張、過大化、変形などによる「身振り」が非常に重要な要素となっている。岡田は横浜の小劇場STスポットで仕事をしていたが、ここは演劇と同時に日本のコンテンポラリーダンスの若手を発掘してきた。そのなかで岡田の演劇話法にはダンス的な要素が強く影響している。以前から活動している解体社など、演劇とダンスなどの間を侵犯する劇団をどう評価するのかという基本的な視点もあるが、さらに現在若手による岡田のような新しい動きにどう答えるのかという問題が、ここで少し表面に出たように思った。

 

●トヨタショーイング

・松田多香子;シンプルに自分のソロを踊る。体も動き見せるが、何か新しいものが立ちあがっているという印象がない。踊りの技術ではなく自分が踊るものを見つける必要がある。

・ピンク;前にキムのラボ20で見た。入口から独特のノリで入ってくるところは似ている。が過激に倒れ暴れまくるところが魅力的。3人のトリオという構成がいい感じで成立している。少なくとも可愛さを売らないところがいい。

・中島由美子;JCDN東京で見た舞台。飛んで行くアニメ的絵を描いて、それを踊るところから始まる。浜田真理子の「THE CROW」「のこされし者のうた」で当てぶり的に踊るが、それがいい。ダンス経験がないというが、それが気にならないアイデアと潔さがある。

・大阪;軍帽に男装っぽい雰囲気でダイナミックに倒れる冒頭がインパクトが強かった。音楽はドアーズ。だが次第に薄れた。技術もあるし踊るパワーもあるのだが、際立つという印象はなかった。

・伊波晋

 まったく自分の孤独な踊りを静かに作っていくところは共感しないわけにはいかない。真摯、まじめな作り手なのだが、そのなかで予定調和的、説明的になってしまっている。・神村恵

 上手奥の同じ位置で体を左右に揺らせながら激しく踊り続けるところ、これが非常に印象的。難しいことではないのに、揺れる上半身が奇妙な時間を与える。暗転して、中央にあるドア、光がそこからだけ差すのだが、そのドアを飛び蹴りで繰り返し開け、光が入ってくるところもアイデアとしていい。ただ手の踊りはもっと執拗さが必要。ラストの下手から引っ張られる力に抗するように上手に動くところは、サイドライトが当たったディプラッツの舞台なら成立したが、ここでは弱かった。

 

●ダンスコリアコレクション;パン・ソヒン舞踊団、浜口彩子@麻布ディプラッツ、2005.7.12

・浜口彩子「レモンボム」

 3人の女性トリオ。最初にレモンを加えて立つ描写が一瞬あり、あとは中盤まで3人のダンス。絡み方はさっぱりとして、それぞれの踊りが時々出会うような作り方。もちろんユニゾン、合わせた部分もある。作った動きをきちんとこなして構成する力は相当高いし、息も合っている。音楽は抽象音に時計、雑踏などで、所々キリヤン的なイメージが立つ。上手手前に小学校の机と椅子があり、セットはそれだけ。円形に光が当たり際立たせたり、特に上手三分の一と下手三分の一強に強く光が当たるコントラストなど、印象的な場面が多い。そしてレモンが登場、紐につけて振り回す、それぞれが噛む、散らばらせるなど工夫がある。最後に中央に並べるところは絵になっていて、黒い衣装と黒い舞台に黄色いレモンがくっきりとなって美しかった。

・パン・ヒソン舞踊団「変身」

 上手と下手奥に二つの大きい脚立、バケツ、白菜、豆腐などが転がり、スモークが雑然とした印象を醸す。観客席からまず黒ずくめ、革製品をつけたロック的というかそんな青年が登場、次にゴスロリのチュチュにピンヒールという魅惑的な女性、さらにビニール性の襟立てで中世貴婦人風の年長の美女、さらに女性が詰め物でせむし的に方の貼った中年男性に扮して登場する。父母と息子と娘か、恋人か。

 黒いゴスロリ的シェークスピア劇のような扮装で、青年が激しく倒れる。これが半端ではない。さらに父役も倒れる。娘も時に。そして若者がモノローグ。「変身」ではなく韓国の詩人の詩とのこと。豆腐の上に何度も倒れ、飛び散りぐちゃぐちゃに。娘は誘惑的な動き、父は強権的な身振り。男女は愛し合いエロティックな行為をちょっと見せる。青年は鎖につながれ、鎖とともにまた激しく倒れる。あるいは父にめった打ちにされるなど、家族制度の抑圧がたぶん「変身」の閉塞感とつなげられていると見える。娘と愛し合い父母に鎖で幽閉される青年、そして葛藤などが描かれ、真っ赤な染料で血のイメージ、白い粉で土に葬られるなどが描かれる。ともかく激しくストレートな暴力が見え、特に青年が女性にする飛び蹴りは、前回以上にパワーアップされている。70年代あたりにあったアングラ劇的だが、もっと怨念的な激しい感情が立ち上がる。実験的、アート的な過激パフォーマンスではなく、そこに感情が根ざしているような印象だった。

 

●岡本真理子「ボタン雲の育てかた #1」神楽坂ディプラッツ、2005.7.13

 彼女は奇妙な感覚をもっている。青いテント生活を模倣し、外に洗濯物を干すような、路上生活を演出する。しかしそこで小さなオブジェを並べ、触ってと、ダンスらしさは少ないのだが、何かが出てくるぞ、という期待を抱かせる。東京コンペでは長年やってきた作品をタイトにまとめて完成度の高い作品で受賞した。これもこれから作られていくのだろうと思う。

 

●Abe 'M'ARIA「So What」テルプシコール、2005.7.15

 タイトルどおり、「だから何なのよ」と観客にパワフルに踊りを突きつけてくる。狂ったように頭を振り、暴れるAbeは毀れた人形のように不気味でもある。しかしそれが観客席に乱入して、戯れ出すと、時にカワイイ少女人形のようにもなる。チェーンを貼って危険な雰囲気のなかに、ゼンマイ仕掛けの人形たちがうろつきまわる。このパワーは一度体験しないといけない。

 

●赤土類「ネリマ…」みゆき劇場、2005.7.16

 50年代からのパフォーマー赤土類が、宙づりになっていく姿、これがなかなか素晴らしい。自力で滑車を使って淡々と宙に上がる。こういったパフォーマンスを数十年続けている。もっと見続けたいパフォーマーだ。

 

●蘭このみ「桜幻想」シアター1010、2005.7.16

 前半のスペイン舞踊は演奏ともに楽しめた。後半の和洋折衷は僕にはあまり惹かれるものがなかった。

 

●ワタル・仁美「おみなえし」舞踏結婚式@テルプシコール、2005.7.17

 これは面白い。大森政秀の天狼星堂のワタルと駱駝塾生だった山谷仁美の結婚式を舞踏の舞台で行う。緊張感のある動きと展開は、儀式性が舞踏と重なって、いい世界を作ってくれた。

 

●サディスティックサーカス@麻布十番WAREHOUSE、2005.7.17

 TH叢書25にレポートを掲載しました。http://www.a-third.com/index2.html

 

●矢内原美邦「3年2組」吉祥寺シアター、2005.7.18

 矢内原美邦は実験を重ねている。今回演劇ということでの舞台。学校のクラスの設定で、先生と生徒がいる。語られる物語とクラスからはみ出す人々、聞き取れない部分も多い物語は、通常の演劇を期待すればフラストレーションだろうが、そういう意味ではやはりダンス、パフォーマンス、動きがベースの舞台といえるだろう。

 矢内原が振付を担当した宮沢章夫の舞台に出た役者が中心のようだ。そのときも思ったが、この役者たちはうまくない。日常を舞台に上げる作品が流行しているが、俳優の訓練を受けているいないに関わらず、言葉に何らかの力がなければ、観客に届かない。この作品でも聞こえない部分はそれでいいのだが、聞こえる部分ではもっと言葉が生きなければ、惹かれない。その曖昧さを意図したのだろうが、その点を一つの実験、挑戦として評価したい。

 

●オトギノマキコ、秀島実@麻布ディプラッツ、2005.7.18

 オトギノはちょっと変だ。舞台にミキサーを持ってきて、缶入りドロップと水を入れて拡販して飲む。小さいネズミを連れてきて、放つ。ある種の自分にとっての儀式を行いながら、踊っている。その踊りは舞踏の一つでなかなか惹きつけるところがある。シンプルだが動きにメリハリがある。だがちょっと人形振りというか、「舞踏」という型のように見えた。たぶん習得した技術があるからそう見えるのだが、それを小道具ではなく、体で一度壊すといいのではないかと思う。

 秀島実は大野一雄の初期の弟子で、欧州ツアーでも踊っている。黒と白の衣装で淡々と踊る姿はストイックかつまじめ。ただまだ踊ること自体について葛藤があるのではないか。それが抜けて大野のように天真爛漫に踊れる人はまあいないのだが。

 

●ク・ナウカ「王女メデイア」@東京国立博物館、2005.7.20

 これはク・ナウカにとって当たった作品だが、僕は初めてだった。日本では平幹二郎が70年代に日生劇場で巨大な龍に乗っていたのに圧倒された記憶がある。あれだけで蜷川はスゴイと思った。『下谷万年町物語』も面白かった。

 ク・ナウカは今回東京国立博物館の中央の建物を選んだ。その奥の洋間、大理石の床に周囲を回廊が取り巻く昭和初期洋館の面持ち。その中央に舞台、手前と左右に観客席を配する。入ると舞台には鹿鳴館図、河鍋暁斎などがよく描いた、江戸から明治の洋館と西洋人風物錦絵風のものが描かれた大屏風状の衝立が四角く舞台を隠している。その奥には左右に広い数段上の背景舞台があり、そこには同じような絵の描かれた巨大な傘が何本も並ぶ。そして衝立が外されて行くと、四角い袋で顔を隠した着物姿の女性が、自分の顔の写真を前に下げて立っている。

 すると黒服洋装の男たちが大声で雑談しながら入ってきて、一人が配役をそれぞれに告げると、男が女性を選んで袋を外す。外されると女は一人ずつ、奥に去っていく。

 こういう大理石のホールを使ったことで、音が響いてしまい聞き取りづらい。設定を生かすためには、何らかのPAなどで補正する必要があるかもしれない。

 しかし通常のスピーカーとムーバーに分かれるというク・ナウカの設定を意図的に露にして、物語の虚構性を最初に描く。さらに女性たちがそのスピーカーも含めて、すべてを殺すなど、逆転を意図した発想は素晴らしい。スピーカーとして並ぶ1人が宴会で暴れ、上のバルコニーで女性に殺されるが、宴会のランチキ騒ぎをもっと人数をかけて強調したほうが、面白いと思う。

 

●ケイタケイ'Sムービングアース「ライトpart4“ジクゾーパズル”」「ランチ」麻布ディプラッツ、2005.7.21

 一本目は舞台全体で大きなジグゾーパズルをケイが組みたてる傍ら、男女が踊っているというもの。できあがるに従って、踊っている場所が少なくなる。

 二本目はテーブルで食事をする男女という設定で、ネコのように動き回る木室陽一が面白い。

 これが30年以上前に作られたということが驚異的だ。演出の仕方をちょっと工夫すれば、いまのコンテンポラリーダンスにもなると思う。

 

●ABT「ガラ」東京文化会館、2005.7.22

 パロマ・ヘレーラとアンヘル・コレーラの『海賊』など優れたステージが次々と。キリヤン『シンフォニエッタ』も面白かった。

 

●山賀ざくろ、星加昌紀+合田有紀●麻布ディプラッツ、2005.7.23

 ざくろは草野球で遊ぶようなモードを舞台に作ろうとした。アイデアはいいのだが、まだ練り切れてない印象。星加のデュオは男2人。ストリートダンスの動きがまざりちょっと面白いところがあったが、インパクトには欠けた。

 

●サシャヴァルツ&ゲスツ「ダヴァン」びわ湖ホール、2005.7.24

 TH叢書25に評を載せました。http://www.a-third.com/index2.html

 

●白井剛「質量, slide , & 」びわ湖ホール、2005.7.24

 素晴らしい。前回のシアタートラムのときもよかったが、その150%のパワーと密度。白井の身体、動きそのものももちろんだが、発想、アイデアも十分。背後の木のオブジェ脇で体重を量る、上手の秤のところで遊ぶ、いずれも「質量」という「モノ」をテーマにしながらも、モノとカラダがどう絡むかを十分に考えた作品。白井の感覚は圧倒的に素晴らしい。

 

●吉沢恵「金魚」麻布ディプラッツ、2005.7.25

 モダンダンスのキャリアのあるダンサーで米国、フランスなどでも学んだキャリアがある。それなりに見せたが印象が薄い。

 

●アジト現代舞踊団「有情男女」、武藤容子@神楽坂ディプラッツ、2005.7.26

 床にポストイットで男女の人型、それを壁に貼って行く。そしてそこに男女が横たわり、あまり立たずに床で展開するダンスはなかなか見せる。コンタクトインプロで作り上げた振付がかっちりとペアを支える。そして次のペア、三角関係と展開する。最後に2人の人型がイルミネーション、クリスマスの飾りの照明でかたどられて輝くところは美しい。どうやらという予想通り、七夕をイメージしたらしい。

 武藤容子はグラサンにコートというハードボイルトな格好で登場して、片足を見せると照明に浮かび上がる姿は女性的でエロティック。そして脱いで上半身、ゴムボートを持ちだしその上で水を被るなど、インパクトがあるし音楽ともよく合っていてカッコイイ。ある種の演劇性があると思ったら、劇団第七病棟の創世期の役者だったという。

●小林嵯峨@神楽坂ディプラッツ、2005.7.27

 下手のアルコーブに光。顔だけが照らされた上半身が歩いてくるようだ。ホーローのボウルを持ちその中に蝋燭が浮いている。炎の光だけで立ち表れ、やがて舞台にそれを置いてわずかな光で踊る姿は幻想的で美しい。その後の展開もなかなか見せたが、やはり最初のシンプルな光だけの世界のインパクトがベストだ。

 

●Noism6「トリプルビル」世田谷パブリックシアター、2005.7.28

 3人の振付家が金森穣率いるNoismを振り付けるという発想が、十分インパクトがある。敢えて行った金森にまず拍手を贈りたい。年を経たダンサーが若手を集めたり、振付を依頼するのではなく、いま旬である振付家が別の人を使うというのは、かなりの英断だといえるだろう。

 そしてその舞台は期待に十分応えてくれたといえる。アレッシオ・シルヴェストンはフォーサイスなどが80年代に作ってきた舞台のモードをベースに、独自のチャレンジを行おうとした。「青髭城」のテキストを大胆に改変した言葉を日本語でダンサーが語る。詩的には響かないが、舞台に何かを生じさせるための装置として機能していた。そして表面を覆う御簾、奥に開かれる壁や床などもタイミングよく鳴る音とともに、それなりのインパクトを生じさせていた。しかしそこに訪れた一番のカタストロフが、自然の地震であったことは、この舞台のパワーを象徴しているだろう。そしてその直後のテキストで語られた「地震」の言葉は、観客に奇妙に響いた。

 黒田育世の舞台は振付という意味ではまったく予想を裏切った。金森穣にトコトン踊らせるソロの舞台、それがベースにある。これはカンパニーの振付を依頼されたことに対するある意味では明らかな裏切りだろう。しかし、それを逆手にとって踊るということのパワーを見せつけた。「体がもげそう」なほど踊るということに、踊る意味を見いだしている。ここでは金森という秀逸な素材を壊れそうになるまで踊らせるということで、振付が成立している。他のダンサーたちの使い方は、神への奉納なのか、何かに憑かれたように踊りつづけるアメノウズメのような存在に対して、憧れ追い求める男と支える祭儀の巫女軍団のような人々という構造で、ある意味で「ボレロ」にも似た構成だ。踊ることが何を生むのかそれはわからない。しかし憑かれたように踊る人がいて、憑かれたようにそれを求める人がいるという、ダンスへの基本的な愛を示した作品といえるだろう。

 近藤良平の振付は逆に個をあまり際立たせずに、さまざまな人同士の組み合わせによるもの。基本は上手からの個あるいは一群と下手からの個あるいは一群が、遭遇し反応して、さりげない笑いを生むというもの。このなかでも金森の動きが目立つのは圧倒的な技術の差だ。

 コンドルズのメンバーよりはるかにテクニックのあるNoismのメンバーが普段着っぽい衣装でコント的に動くところは見応えがあった。ただこう見ているとコンドルズの「緩さ」がなつかしい。というか緩さが少なくなると、エンターテイメント、ショーダンス的に見えてしまうような気がする。これは不思議

 

●「ラクカラチャ」水戸芸術館、2005.7.30

 鈴木忠志がいたころに水戸ACMに入った劇作家・演出家の長谷川裕久は注目株。複雑な戯曲にダイナミズムを生じさせ評価されてきた。

 榎本武揚、函館五稜郭、尊王派で知られる彼が、破れてその後、アジア独立、さらにメキシコ植民にと進む生きざまをベースに、新鮮組、メキシコ革命とサンチョビラなどを登場させ、時代と場所を越えて展開する物語。西部劇やマカロニウエスタンの要素を重ねながら、男たちの衝動とダイナミズムを描こうとする作品。

 それぞれが何役も演じ次々と舞台が転換するが、観客はそれについていけない。「いまコイツは誰」と思うことが多いと、物語に入り込めない。その惑いもドラマのパワーの一つでもあることはわかるが、それが多いと観客が客観的になってしまう。

 物語の魅力、芝居の魅力は観客がとことん主観的になるところにあると仮に考えれば、この舞台はそれに反しているかもしれない。醒めていく観客を惹きつけるだけの戦略がなかった。これは恐らく脚本を読めば、もっと入れるだろう。しかしそれではダメだ。モチーフ、発想ともに秀逸なのだから、改訂版を望む。それはひょっとするといまの演劇界にかなりの衝撃を与えるかもしれない。

 

2005年011月16日 

 

「ラボ20の魅力」

●伊藤キムキュレーション「ラボ20」@STスポット、1/23

 

 毎回振付家による選択とアドバイスによって舞台を構成し、新人ダンサー・振付家を育ててきたこの企画は、最初伊藤キムで始まり、これが2度目の登場。六組のグループが10~20分程度の舞台を見せた。

 

◆ピンク

 舞台奥ホリゾントの左右にアルコーブ、へこみがある舞台。その左、下手のへこみに3人の女性が体の右側を前にして、横向きで重なるように立つ。白いTシャツにハイソックス、2人は赤いミニ、1人は青いパンツでチアリーダー風の姿。クラブ風の曲が一瞬流れて消える。その入口の狭いところに3人が横身で動く。手をブルブルさせたり、「糸を巻き巻き」の動きなど、手遊び的なものを繰り返し、屈んだり身を乗りだしたり奥に入ろうとしたり、ずっと狭いそこでウネウネと動きつづける。そこが非常にいい。入口の境界、いわば舞台への境界領域ともいえるその場所で、手数を変えて動く。少し相手に絡むが過度ではない。その3人の繋がり方がとても面白い。そして1人がようやく、出ちゃいけないのに出ちゃったという形でこちら、舞台に入り、繋がって2人も登場し、3人で絡むがこれも奇妙。重なり合っての変な姿が、見たことない印象で、ここまでが素晴らしい。

 絡みから立ちあがって、J-popの音楽で揃って踊りだしていくところは、短いサビとして入れるだけでよかった。それからが少々長すぎたので、むしろラストはまた「入口3人のダンス」を反対のアルコーブでやってもらえばよかったと思う。

 

◆ホナガヨウコ

 舞台のあちこちにマンガが置かれ、ダンサーは出てきてそれを読むポーズから、マンガの中の動きを模倣する。動きと時折発せられる短いセリフから、「アタックNo1」などと知れる。アイデアは面白いが、当て振り以上の力はない。サバっとしたダンスで印象に残りにくいが、それが個性かもしれない。

 

◆捻子ピジン

 下手に立つ全身緑で顔が白塗りにチュチュのようなものをつけた男がふらっと立つ。そのままゆっくりと顔を動かし、体を微妙に変化させる。この感じはいい。足の指、腹の筋肉など、丹念に動かしていくところ。このまま踊ればいいなと思ったのだが、大らくだ艦的表情のつくりなど、チュチュ風のものを脱ぎ捨ててからは、むしろ奇妙さを狙いすぎて、観客は笑いに流れた。体自体でもっと丁寧に動くことだけで20分もたせればいい。それができる期待されるダンサーだろう。

 

◆AMM

 エアロビ風、スーツ、主婦風の女性などが登場して、急に逆さになり足でポーズ、背景のアルコーブ、窪みから何人かが顔を出したり手を出したり。やがてゾロゾロと老若男女とまではいわないが、小学生から40代までが登場し、日常の模倣の動きや揃ったダンス。ジャズダンスやストリートダンスなどさまざまを混ぜて、コンテンポラリー風な新しい動きも入るが、全体はショーダンス。しかし面白い。それは動きのユニゾンや展開、振付もあるのだが、小学生から外人、主婦っぽい人までが混ざって揃っての群舞など、同等にこなしているところだ。コント風の動き、音楽によりフリーズするポーズなど、常套手段だが、この集団で見ると楽しく、特に動きと人両方がゴタマゼになっているところが凄い。

 

◆port+portail

 下手端にコントラバスを挟んで男女がビールで乾杯。飲みながら、横たえた楽器の弦を相互に爪弾き、現代音楽的アドリブの音。やがて女性はグラスを持ったまま動き踊りだす。その動きが次第に激しくなり、楽器を弾く男に絡む。激しく引きずり回すように絡んだり、相手に乗ったりして暴れる。そして最後にキスをして終える。

Kim Miyaのダンスはダンス的な動きを廃して自由に動こうとしている。しかし何か妙に不自由な感じ。奥歯にものが挟まったようなというイメージ。激しくなってもたぶん踊っている人ほど観客は乗っていない。それはこのテーマ、男女の関係といさかい、そして元の鞘という話が単純にすぎるからだ。争うなら徹底してコントラバスを破壊しボロボロになっていくくらいすれば、まだいいのだが、そういうカタルシスがない。ちょっとした痴話喧嘩的物語には惹きつけられないだろう。あるいはもっと別の次元、始めとは違う物語になっていくなど、観客の想像力を刺激してほしい。

 

◆Benny Moss

シュミーズ、ガードルに膝当て、頭と顔をすっぽりメッシュ状の帽子で被い顔の見えない女性が、白と黒の衣装のコントラストで登場する。抑えたライトのなかで、よじれたポーズ、股間を突き出すポーズ、恥骨パンチというらしいが、そんなあられもない動きをしながら絡む。相手の匂いを嗅ぎ自分の匂いを嗅ぐというモチーフ。そして1人がヒイハアと泣く、笑う、咳ともとれる激しい息遣いをすると、それが相手に移る。すると一方は止めるという、奇妙なモチーフの連鎖で、喧嘩のようになったり、性的な関係のようになったり、2人という関係性をそのモチーフと動きの絡みで表現する。これが面白い。笑いをとるためでもなく、エロスをしつこく追求するのでもない。どちらも紛れ込ませてあるが、そこには純粋に動きと2人の関係性の表現で何かを表そうという、実験的な営為がある。後半ちょっと冗長になる部分があったが、それでも優れたオリジナリティのある舞台だ。

 実は前のディプラッツの「ダンスがみたい6」で米国ダンサーたちのオムニバスにまざって登場したのを見た。そのときは男女だったが、そのために動きを抑えて抽象的に見える舞台で、モダンの延長で踊る米国ダンサーたちよりも遥かに面白かった。女性同士だったことと2倍の長さだったために、抽象性は薄れたが、執拗さは高まったようだ。これからも期待している。

 

2005年03月24日

「ハムレットは不在か」

●遊園地再生事業団「トーキョー/不在/ハムレット」@シアタートラム、1/21

 

 白い数十センチのスリットが入った壁が舞台を左右に区切る。といっても中央は奥まった形で、上手上に青に赤い線の看板。スリットの仕切りの奥には空間がある。

 女性1人と数名の男がしゃがみ、立ちつつ会話をしている冒頭。コンビニの前に集まる若者たち。

 その会話から次第に過去にあった自殺、殺人などが浮かび上がる。舞台上にある白いパネルやスリット壁に映像が写る。例えば水死した女性の映像。ジャンフランソワ・ミレーの「オフェーリア」のような姿。

 追想される会話で北関東、埼玉県北河辺市の事件と知れる。墜落死した男と疾走した息子。死んだ男の亡霊と、その妻が男の弟と再婚したこと。ハムレットの基本構造が現れる。顔役であった父と義父。出奔したハムレット。東京から来てここに暮らす兄弟と兄の嫁。弟は兄嫁に欲望を抱き、それを彼女も感じており、悪戯電話による刺激で欲情している。これはハムレットの父母と叔父の関係を別の人間で表す。また、高校生の自殺したオフィーリアは兄と近親相姦関係にある。これはハムレットが母、ガルトルードを犯すことを転換した表現だろう。

 この地方の事件を誰かに訴えたいと、手紙を書こうとする男はファッションヘルスのようなところの女とからむが、その場面がスリットの向こう側の空間で演じられ、観客は上の映像とスリット越しにそれを見る。トランプやゲームをする男たち、挿入されるダンスなどの動きが、微妙に物語に絡み、刺激的だ。

 ハムレットの叔父とオフィーリアの父を演じる俳優はアクが強く、若い役者とそぐわないのだが、それはそれで面白い。他の役者は特に上手くもなく下手でもない普通の若者の雰囲気。舞台の構造と映像、ダンスを巧みに使った興味深い舞台といえる。

 しかし2時間半以上の物語が、最後に北関東の東京コンプレックスのような終り方をしてしまうところは、いま一つ。ハムレットの物語にこだわって、名前などをわざとらしくつけているのもマイナスだろう。タイトルで東京、ハムレット、不在といって物語をそのまま示してしまっている。義父の王と母を殺さずに、「悪はいつでもあって、ありつづける」として、地方都市の混沌と重ねてしまうのは、戯曲の発想がステレオタイプではないか。ダンス、映像などを見れば意欲作とはいえるが、全体として成功作とはいえない。

2005年03月24日

「サカマルンド」

●若尾伊佐子「サカマルンド」@テルプシコール、1/15

 白いランニングにパンティ、膝当てで髪を括った姿で舞台中央に歩んできて静かに立つ。少しずつ手を上げ動き始める。非常にゆっくりとした動きで屈み、床を這うようにして踊る。動きは舞踏的でもなく、モダンダンス的でもない。自分で動くということだけを考えようとしている。立ちあがって動くと所々モダンやバレエっぽい動きになったり、習得した技術がチラチラ見えるときもある。しかしそれを超えてしっかり踊る、体一つで踊るという意識が立ってくる。無音で踊るというのは、音楽を一切拒否するというストイックな姿勢だ。こうやって何年もソロを紡いでいる若尾のスタンスは、自身の存在理由を賭けているようだ。照明も抑えながら、それでもいいポイントを照らし、身体をできるかぎりベストの形で見せるすばらしいもの。踊り手の気持ちにかなり合っている照明のように見えた。立った動き、手の動きが技術をどうしてもかいま見せてしまうことを超えて、自分自身の動きをもっと出せれば、それはもうパーフェクトといえるのではないか。

 

2005年03月24日

 

「キムの花」

●伊藤キム「壁の花、旅に出る」@BankArt1929、1/14

 

 舞台はパーティ会場のしつらえ。中央の3つの長テーブルに料理が並び、観客はバーでドリンクを貰ってパーティを始める。周囲にはシュミーズ、下着姿の男女が1人づつ、生きた彫刻のように台に載って立つ。パーティの間彼らは、非常にゆっくりと両手を上に上げていく。

 そして男女が1組、女性がある動きをいうと、それに合わせるかのように男性が動いて踊る。混雑のなか、移動しながら踊りともつかない動きをし、突然、男性が何かを論じ始めたり、観客に話しかけたりする。彼らが去ると、彫刻と化していた男女が去っていき、ガラス張りの階段に掛けてあった衣装に着替え始める。

 テーブルがかたずけられ、着替え終わった女性が2人登場し、観客の間で追いかけっこのような動きと、ダンス。混雑のなかをめまぐるしく走りながら、動き踊る。そしてそれが中央で展開すると、その踊りと他のダンサーが静かに空間を広げて行き、縦長の舞台空間をつくる。そしてダンサーたちが登場、ガラス階段をホリゾントとして10人並び、両側と手前に観客。数人ずつ前に出て踊る。これが面白い。

 キムのつくる動きはやはりどこか違う。壊す部分、構成する部分、築く部分。さまざまな要素が交互に出てくる。数人ずつ同じ動きをして、1人が残り次の集団の踊りに絡み、そして1人が異なる動きをしてなどと、規則性を壊し、動きの構成に異化する部分を入れる。やがて揃った群舞になり、かれらが立ち尽すとそこに伊藤キムが登場してソロを踊る。間をすり抜けて独自のソロ。これがいつもよりも緩やかで安心を誘うダンス。それまでの破壊と緊張に対してなのか。と、ダンサーたちが観客を数人舞台に立たせる。8人ほどがつくった長方形の空間でキムが踊り、そして立った観客に絡む。女性の足に丸くなってまとわりつき、スーツの男性に絡み、彼と2人になり上着を剥いだりなど、笑いを誘う。そして全員でエンディング。

 パーティ会場にダンスが乱入するというコンセプトで作った舞台は、新年だからということもあるだろうが、日常にダンスを混ぜるという試みとして注目される。実は『劇場遊園』『階段主義』などの最近のキムの公演もその文脈にあった。劇場遊園の第1部は、舞台周囲のロビーなどで散発的に即興でダンサーたちが踊った。そして観客席と舞台を入れかえるという実験も行われていた。

 今回の舞台は実にスムーズに舞台をつくり、群舞、ソロを入れている。これはこれまでの経験から生みだされるものだろうが、キムの技術の一つだろう。ダンスは非日常なのだが、それを日常のなかにまぎれさせるためにはそれなりの技術が必要で、それをまのあたりにした。

 しかしそういう点を除いても十分楽しめる舞台だった。人間オブジェ、生着替え、ハプニング的な乱入のあとにデュオ、ソロ、トリオ、群舞を交えた構成とキムのソロ。そして客を舞台に出したことは、このダンスのコンセプトを顕著に示すものだった。日常的なスーツ姿の男に絡み、それ自体がダンスになることをわかりやすく示している。歩くことも舞踏になるというコンセプトから離れずに、日常と非日常も視点の転換だけで新しい世界が見られることをキムは常に示しつづけている。

 

2005年03月24日

 

「いま過激を問う」

●音楽堂シンポジウム「いま過激を問う」@神奈川県立音楽堂、1/15

                           志賀信夫

                           

モデレータは小林康夫。岡崎乾二郎の「過激」をテーマに画像による紹介。そして一柳慧、中川賢一、バイオリン、山田うんによるコラボレーションとシンポジウム

 一柳のピアノ曲、彼が鍵盤を弾かずに弦で色々な音を出す、中川が拳骨で叩きまくる、小林が1音を出しつづける、そこで山田が踊る。

 山田は中央で黒いスーツ、スカート姿。下手側を向き左手を伸ばし、開き、陰になる右手を伸ばす。片足を上げ、スリットの太股の足を見せ、屈み、立つ。正面を向いて、一瞬、しゃがみ、立つ。ちょっとした動きの連鎖。立って横を向き、時折正面を向くのが基本というシンプルな動き。最初ピアノ弦の音、バイオリンが絡み、ダンスが始まり、しばらくして突然、ーが激しくピアノを拳骨で叩きまくる。全体で10分ほどか。短いが何気なく山田の力が感じられるダンスだった。

 次に改変バージョンとして、ピアノにいきなりーがフライパンを叩きつける。蓋をとった弦の部分に、小林、山田などがどんどん灰皿、ナベなどを投げ込む。金属製のキッチンの物体。中川は拡声器を持ちわめきながら、ピアノから次第に離れ、上手の扉を開けて倒れこんで終る。

 シンポジウムでは、小林と岡崎の議論が中心だが、山田うんも演じ手ならではの、リアルなコメントを出していた。

 

2005年03月24日

 

 

「キムの体位」

■「キムの体位:増感ラジオ体操」早稲田大学、5.29

                              志賀信夫

 

◆パンチから体位へ

 伊藤キムは本当に自在なダンサー、振付家だ。学生を中心としたコラボレーションを、楽しくかつ見応えのあるものにした。

 これは、早稲田大学芸術学校空間映像学科が、有名人を招いて行う企画。今回はある学生の発案で、伊藤キムを招いて始まった。2000年に慶應大学で学生による通称『ケイオウ★パンチ』という、一日大学のあちこちでキムが踊ったり、学生がその写真を撮ったり(「キム・撮り放題」)、デッサンをしたり(「キム・描き放題」)する企画があったが、それも最後のラジオ放送に合わせたダンス公演(「囲い込み」)を含めて、ユニークなものだった。

 

◆映像と映像

 今回は早稲田の学生たちと伊藤キムが企画を出し合って、共同でいくつかのパフォーマンスを創り出した。その一つは町でキムが手にハンディビデオを持ちながら踊り、それを学生たちが撮影するというもの。キムがたまたま持って踊りながら写したら、面白い映像が撮れたので、それを発展させたという。まずキムが新宿で踊りながら撮影して学生たちはそれを見て、その後、吉祥寺の商店街で共同でダンスと撮影を敢行した。

 この日はその映像を3つの形で提示した。会場入口ではキムの映像と学生の映像がインターバルをもって交互に投影される。小さいパソコンでは映像の同時性をリンクさせるように編集したもの。そして奥では2mくらいの高さのオブジェ、直径2mほどの円柱形に細長い紙をぶら下げてたものに3方向から、左右に学生の映像、中心にキムの撮った映像が映されるという展示だった。

 片手に持ったカメラを下から頭の上まで持っていき、回転して下まで持ってくると、見ている側は天に上がっていったり、そこからキムの頭に墜ちてきたり、地面に這うなど、非常に面白い視覚体験をする。そしてそれを周囲から写す映像がシンクロすると、キムの踊り自体の映像と、彼の写す偶然的な映像に入り込むことが同時体験できて、かなり刺激的だ。奥の大きい映写のオブジェは外から見ると3つ同時には見られないので、中に入って見るほうがいい。会場にはほかに、回り灯籠のオブジェ、円柱にスリットが入り、回転させ光を当てると中のモノが動いて見えるというオブジェがいくつも展示しており、これの巨大な変形をスクリーンとしたということがわかる。

 また土管の穴のように壁に開けた直径1.5mほどの空間には、キムがそこでとった様々なポーズが映し出される。身体をつっぱったり、うずくまったり、金や銀の衣装など、そこで実際にポーズして撮影したものが、投影され、これもなかなか楽しめた。

 そして2つ目のイベント、これはラジオ体操をモチーフにしたものだった。参加者を公募して、この前の2日間ワークショップを行った。テーマのラジオ体操は企画した学生佐藤素子の思いつきだった。キムは当初、動きの「型」があるものは使うことにためらったという。しかし学生がラジオ体操の歴史を調べてきて、その本や背景、動きの決まり事が多いことなどに興味を惹かれたと語る。

 

◆ラジオ体操

 そのワークショップの結果として、早稲田大学構内3ヵ所を中心にしたパフォーマンスが実現した。それは大隈講堂前、中央奥の広場、右手奥の新しい建物で始まった。その新館に短パンの体操着姿の男女が並んで集まってきて、入り口手前でポーズし、一人ひとり扉から駆け込む。すると目の前はエスカレーターで、そこを登っていく。参加者たち(パフォーマー)は4階に登り、そこからさまざまなポーズで下ってくる。下まで降りるとまた登っていき、降りてくる。白い体操着姿の男女が一方で登っていき、もう一方で降りてくる。それとは知らないカラフルな服の一般学生が間に挟まれ戸惑う動きと、白い体操着の参加者がポーズをとって動かないコントラスト。素朴ながらエスカレーターの動きと空間を利用して、パフォーマンスとしてもかっこいい。

 すると一部が移動して、建物脇の階段で転がったり思い思いの姿。大階段から大勢が転がり降りてくるキムのパフォーマンス「階段主義」の一部といえる。さらに移動して、中央奥の広場でラジオ体操が始まる。最初は体操の音楽に合わせて、しかしどこか崩した奇妙な体操。人が加わり数十名となり、音楽を変え、キム流の複雑な動きを入れたダンスになる。

 終わると参加者たちはあちこちに散っていく。そして木陰、建物などに隠れながら、徐々に移動する。目指すは大隈講堂前。そこに集合すると、待っていた年長の人たちが正当派ラジオ体操をやり始める。手本となる者が前に立ち、十数名、少しずつ人が増えていく。さらに散会していた参加者が加わっていき、数十名が揃ってラジオ体操を行って終わる。大隈講堂前に展開するこの姿はなかなか見物だった。

 このパフォーマンスはエスカレーター、階段、広場などの異なった空間を巧みに使い、知らない観客が多数いる大学という場で行ったことで、偶然性、ハプニング性を高めた。参加者も学生から大学職員、70歳の男性などさまざまで、伊藤キムならではの動きを、多くの素人を交えた人々が踊る面白さは、奇妙な動きと変な集団という印象で人々を惹きつけた。散会して隠れながら移動するところなど、通りがかりの人を利用して動き回ったり、独自の動きをつくり、その偶然性を見る人間も感じとったようだ。そして全体的に「遊び」のような柔軟さが感じられる。昨年のパブリックシアターでの「劇場遊園」でも、前半はホール周囲でゲリラ的パフォーマンスが行われたが、そのときよりも開かれただれでも見れる空間で、多くの素人が行ったことで、ハプニング的な面白さを増した。

 

◆素直な心

 第3部は伊藤キムの講演会。司会者の同校助教授佐藤洋一とともにテーブルに座って、周囲を人が囲むというフランクな形で行われた。この企画の経緯や発想などが語られたが、実は大隈講堂前のシニアたちは東京都ラジオ体操連盟の面々で、その動きは型、決まりがあり一種の伝統芸能みたいなので、それを壊すというのもアリと思ったという。またダンサーに求められるものはという質問に、「素直な心と体とシンプルな生活」と語る。さらに、ワークショップでは素人もプロも一緒に通常行うこと、それはいったん身体を壊す意識をもって、そして同時に作るということを強調した。ダンステクニックなど、技術をもっている人はなかなか壊せない。素人は何もないから壊せるが表現技術がない。両者が一緒にワークショップを行うことで、互いに刺激し合うことが重要だという。

 伊藤キムは『階段主義』『劇場遊園』などでワークショップ参加者を舞台に上げてきた。また『花の歴史』では老婆、老嬢たち、今回は東京都ラジオ体操連盟の老人、シニアを動かした。このように普通の人々が動き、演じても、面白い舞台、パフォーマンスを展開できること、伊藤キムは一方でそれを模索しているのかもしれない。

 

2004年06月09日 16時50分17秒

 

 

「舞踏の新境地へ」

●室伏鴻 Ko&Edge

 Experimental Body series 1 「Heels」

          2004.4.14,15, at 神楽坂die pratze

                        志賀 信夫

 

 室伏鴻の踊りを始めて見た者は一様に驚くだろう。鍛え上げられた身体、それが非常な緊張感とともに動き、音を立てて倒れる。背中から、時に頭を打つ。血がにじむこともある。だが身体を痛めつけようというのではない。舞踏は立ちあがること、立てないことから始まるといって、そのプロセスを踊る人もいる。しかし室伏はちょっと違う。立たないこと、倒れること、うごめくこと、壁にぶつかること、そのものを踊りにしている。

 緊張感ばかりではない。倒れてきて緊張をとく、あるいは緊張のさなかに、言葉を発する。気合の声、うめきとは別に、普通の言葉がポロっと出る。今回は、「下駄を履いたからといって……」という言葉を繰り返した。このような言葉が時に笑いを誘う。

 だがストイックだ。とぎすました感覚、それが伝わってくる。屈むと独特の湾曲を見せる背に浮き出す背骨は、恐竜のそれにも似て、古代からの脊椎動物の継承を感じさせる。スキンヘッドに細い目は一見怖いだが、笑いが優しい。

 

 昨年の同じ神楽坂ディプラッツでの舞台は、久しぶりの室伏のソロで、定員80名のところ、160名近くが詰めかけた。そのため室伏が踊るスペースは6畳から8畳程度だった。その2日間の公演で、室伏の名前は古くからの舞踏ファンのみならず、最近のダンスファンにも知られるようになった。

 今回は若手ダンサー3人とのユニット。昨年のダンスフェスティバルJADE2003「美貌の青空」の際に日本では初舞台を踏んだ。目黒大路はアスベスト館出身、JADE2002のときに元藤燁子、大野慶人と共演し、「あれは誰だ」と注目された。鈴木ユキオもアスベスト館、滑川五郎、大ラクダ館のメンバーらとの共演を経て、「金魚×10」というグループも展開。林貞之は舞踏経験は少なく、コンテンポラリーダンサーとして、ゴルジ工房を結成して活動している。

 

 畳1枚ほどの大きさの真鍮板が3枚並べられ、3人がその端を持ち上げて、観客席に向けて激しく倒す。バタ、バタンという音とともに風がこちらに向かってくる。それを3人が繰り返す。そんな意表をつく行動からこの舞台は始まった。今回も130名近くが詰めかけ、やはりスペースは8畳から10畳。そこで3人がまぢかで大金属板を倒すから、前の数列は恐怖。真鍮の金色に照明が当たり反射と輝きが場内に乱舞して美しい。短髪に黒いブリーフの裸身に筋肉が光る。そしてそれぞれ真鍮板を背中に載せ、下手を向く。高いハイヒールを履いている。男性的な身体とハイヒールに金色の板。目黒は赤いハイヒールでコントラストがいい。背負ったまま3人がぶつかり出す。壁に、そして互いに。かなり危険で、ドンという音がリアル。軽そうに見えるが、実は18キロという真鍮板が輝く。舞台中央にそれぞれが板を投げ出し重ねた上で、揃って座り、座り込んでハイヒールの足を持ち上げうごめく。

 暗転して明るくなると、金属板の横にうずくまる室伏。ゆっくりと動き出す。足を踏み締めると、赤い花柄の鼻緒の下駄。床を鳴らす音が響く。上半身裸で黒のブリーフ。しかしかがむ姿が違う。人間でない動物の雰囲気。鍛え上げられ変質した身体が真鍮板を踏み鳴らし、背後の壁に足を打ちつける。身体に緊張を込めている。真鍮板を背中にしょってかがみ、伸びあがって揺らす。ふわん、ぼわんという独特の音が高まり、現代音楽のようだ。舞台の柱に板のふちをぶつける。柱を切り倒さんばかりの勢い。そして3枚を三方の壁に立てかけて暗転。

 若手3人が黒いスーツに顔を白布で隠して登場して踊る。室伏の身体の緊張に比べると弱い。それぞれ美しい筋肉だが、身体に込められたものが違う。だが上着を脱ぎ、3人が暴れて顔を露わにし、かがんだまま絡み合って立ちあがる姿、両腕を3人が組み合わせてつながった姿は非常に美しい。ゆがんだボッティチェルリの三美神。それまで無音かノイズ系だった音が変わり、フォーレの「レクイエム」の流れるなか、それぞれが、両手を頭の上で組み吊るされるように伸びあがる、このポーズ、吊されるサン・セバスチャンに通じるものがある。室伏が登場して4人で踊る姿も見ごたえがあった。アンコール、ジョン・レノンで踊る姿はさらに拍手を浴びた。

 

 室伏自体の踊りは大きく変わらない。しかし若く鍛えられた身体をもつ3人を降り付け、彼らと対照をなすときに、それぞれが輝く。若手は室伏の存在感、強さには遠く及ばないが、しかしこの4人のユニットは、強い身体の生み出す密度と緊張、ほのかに香るエロティシズムとともに、代えがたい魅力のある舞台を作る。以前のメキシコ人たちを降り付けたときよりも、はるかにいい舞台を生み出している。かつてはアリアドーネの会という女性だけのグループを立ち上げ、降り付けていた室伏が、男性舞踊手とともに舞踏、ダンスの世界に新境地を切り開きつつあることを体感させる優れた舞台だった。3人の若手も、いまは室伏流に馴染むだけで精一杯かもしれないが、これから多くの葛藤とともに、新たな地平が開かれるだろうと予感している。

  

2004年04月21日 21時01分38秒

 

 

「舞踏とコンテンポラリーダンスの出会い in Germany」

●海外レポート「eX...it!」at ブルーリン

                     喜多尾浩代

 

◆「eX...it!'03」

 2003年8月、ブルーリン城国際芸術交流センター(旧東ドイツ)で開催された、第3回インターナショナル・ダンス・エクスチェンジ・プロジェクト&シンポジウム「 eX...it! '03」に参加した。以前から興味を持っていた「eX..it!」に招待されたことを喜んでいたのだが、私自身のアヴィニヨンFestival Offでの単独公演と重なっていたため、後半のみオブザーバーとして参加することになった。

 「eX...it!」は、パフォーマー・演出家であるデルタ・ライと、TEN PEN CHii art laborを主宰する舞踏家吉岡由美子(ミゼール花岡)の2人のアートダイレクションによる。ベルリンから150キロ離れたポーランド国境に近いブルーリン村の、古城跡地を改築したアート・ビレッジで、4年ごとに開催されているプロジェクトである。

 1995年に第1回目が開催されて以来、参加者や地方住民など多くの人たちの支持を受けて発展し、第3回目となる今回は、新しい試みとして「Butoh meets Contemporary Dance」(舞踏とコンテンポラリーダンスの出会い)というテーマを掲げて開催された。そのため、舞踏家のみがインストラクター(アーティスト)としてワークショップを提供していたこれまでとは違い、今回は、舞踏家4名と舞踏に関心を抱くコンテンポラリー・ダンサー4名、計8名の振付家がインストラクター(アーティスト)として参加していた。

 そこに、全世界から集まったプロ、アマを含めたワークショップ生53名(アシスタントを含め)と、ミュージシャン4名、彫刻家2名が加わった。そして、アーティストのデモンストレーションパフォーマンスを導入部として、各アーティストによるグループワークショップ、そしてアーティストの指導・演出のもとで、敷地と建物を生かした最終公開パフォーマンス(2日で350人の観客を動員したことには驚いた)という内容で構成されていた。

 

◆ダンスと身体の関係を探る

 さらに最終日には、ジャーナリストや研究者がワークショップ参加者を交えてのシンポジウムを繰り広げ、シンポジストの研究内容をもとに、参加者全員が『舞踏とコンテンポラリー・ダンスの共通点や相違点』についての意見交換をすることによって、ダンスと肉体の関係性を探る貴重な時間を持った。

 今回の試みは、参加者がワークショップや作品創作などを通じて、『各人において舞踏とは何か』を再確認することができる充実した内容であったと感じた。また、「eX...it!」のアートダイレクションを務めた吉岡さんは、『「命を震わせたい!」という踊りの根源的欲求は、民族性やアプローチなどは違っても、驚くほどに共通しているという点が、このプロジェクトを通して浮かび上がったのではないか』という感想を、後日メールで伝えてくれた。

 

◆舞踏の身体性

 今回「eX...it!'03」に参加してみて、欧米の舞踊家たちは機能性に対する価値感を持ちながらも、舞踏の身体性を高く評価し、その身体性との出会いを大切にしていることを再認識した。つまり、「eX...it!'03」のワークショップ生は、様式化した舞踏の表現を身につけるという姿勢で参加しているのではなく、また互いの表現に共感し多様性を認め合って、舞踏を通じての出会いを楽しむ、ということを期待して参加しているのでもないように見受けられた。

 私には、参加しているすべての人が、約2週間のプログラムを通じて、各人が持つ身体に対するテーマを内包する舞踏(Butoh)に出逢っているように感じ取れた。また、共産主義時代に矯正者向けの集団農場であったという歴史的背景と、手付かずの自然とが醸し出す不思議な空気感、そしてスタッフの心の暖かさが、「eX...it!」を支える大切な要素のように感じた。2007年には第4回目を迎えるこのプロジェクトがどのように発展し、またどのような展開を見せるのか、今から楽しみである。

 

■参加講師など

 舞踏系:竹之内淳志(北方舞踏派出身、Globe Jinen主宰)、川本裕子(好善社出身、東雲舞踏共同主宰)、GregorWeber(古川あんずに師事。ドイツ)、Yael Schnell(Batsheva Dance Company出身。イスラエル)、コンテンポラリー系:Laura Moro(Teatro La scala in Milano出身)、Lara Pinheiro(Carlos Orta Company出身。ブラジル)、Frances Barbe(Zen Zen Zo Company出身。英国)、Kata Juhasz(Pal Frenak Dance Company。ハンガリー)、音楽:小宮広子、花尾律子、Ozy Zbigniew Szmatloch(ポーランド)、Tom Zunk(ドイツ)、彫刻:Joachim Manger(ドイツ)、岡林まゆみ、パネラー:Dr. Sondra Fraleigh(米国)、Dr.Rudolf zur Lippe (ドイツ)、Dr.Rolf Elberfeld(ドイツ)

★吉岡さんのワークショップ・連絡先など

http://www.ne.jp/asahi/butoh/itto/yumiko/yumiko2004.htm 

2004年04月02日 12時37分42秒

 

 

「打ちのめされるような凄い舞台」

●『花は流れて時は固まる』

        Batik公演、振付:黒田育世、2004.3.3、パークタワーホール

                               志賀信夫

 

◆立ち上がれない

 ヤバイこれは。「打ちのめされた」という表現が、これほど適切な舞台に出会ったのは本当に久しぶりだ。いや初めてかもしれない。「感動で立ち上がれませんでした」という常套句があるが、正直そんな気持ちに、「立ちあがって快哉を叫びたい」という思いが重なる。それほど凄い舞台だった。再演されなかったら、これを見逃した人は一生後悔すると言い切ろう。日本の1人のダンサー・振付家がこれほどの作品を作るとは、誰しも予測していなかった。

 

 冒頭ピアノソナタで踊る黒田。白いタオル地のシュミーズのような衣装で回転を100回ほど。見る側は「白鳥の湖」の黒鳥のグラン・フェッテを意識するが、片足を上げてではない、足をつけた普通のその場での回転を執拗に行う。時計回りの回転は裾が広がるとトルコの旋回舞踊にもちょっと似た印象だが、そこまで宗教化、抽象化せず生な動き。そしてその回転から、今度は反時計回りに走り出す。最初は小さい円を描き、それがだんだん舞台一杯に広がる。続くソロはバレエのテクニックを駆使しながらも、斜めに差す光の中で、鋭い抽象的な動きをまじえて踊るのが印象的。回転の後のソロがうまくかみ合って効果的、観客の視線を惹きつける。

 次の幕、女性たち3人が同じような衣装で走りこんできて斜めに倒れる。それが繰り返される。音楽はバイオリンとアコーディオン。黒田は3人それぞれに合わせて同じように倒れこむ。皆バレリーナに似た白い衣装。チュチュまがいで少し長いスカート。やがて倒れた姿のまま、音楽に合わせて揃って横になって踊る。黒田が踊り出し、中央で倒れた3人が踊る。黒田は舞台から去る。

 

◆花を産む

 3人の踊りはそのまま舞台前方に並ぶ。黒田が下手から登場するが、今度は、観客に背を向け横になり痙攣している。舞台上の3人は踊りだすが、黒田は痙攣しつづける。そのうち3人が倒れる。3人はこちらに伸ばした足を向けているが、短い衣装からスカートの中が見えてエロティックなイメージを作る。

 すると、背景の足場のような白い装置の下に2人の女性が白い衣装で登場し、スポットライトの下、前幕で黒田が踊ったように、それよりややゆっくりとくるくると回転し始める。黒田は痙攣して身体全体を曲げ伸ばしながら、上手へ移動し始める。手足を使わずに全身で移動する。

 すると動くごとに、黒田の後に紫の花が残される。伏したまま激しく身を動かしながらも、移動は少しずつ。一筋の紫の花が手前に並び、観客をドキリと脅かす。その手前には水の張られた場所、小さな堀のようだ。開演前この部分は、ガラスの下にライトがあり、舞台を下から照らすものと思われた。だが動きでわずかに波立つので、水が張られているとわかる。ちょうど堀のように観客席と舞台を区切る。その向うに一筋の紫の花の帯が、痙攣しながら上手に向かっていざる黒田の後に残される。ナメクジの筋のように、あるいは産卵したウミガメの卵のように。女性の生理的な感覚がそのまま現され、鮮烈なイメージが目に残る。

 

◆鈴とエロス

 暗転して有名な「ロメオとジュリエット」の曲、プロコフィエフの激しい音楽で、寝たままの女性たちの股間の動きや足を強調した群舞が始まる。ピナ・バウシュも使ったダイナミックな曲。中央で1人がもう1人倒れた女性にレズビアンのように絡む。そして置きあがって踊り、ぶつかりあったりして絡みあう。黒田も登場して、突進してくる相手を投げ飛ばしたり投げ飛ばされたりと激しい。

 ふと気づくと、女性たちも手と足に紫の花をつけている。その花をつけた女性たちが水のほとりに座りこむと、黒田が下手に座り、大股開きでスカートの中を観客席に向け、ゆっくりいざってくる。水辺の一つの紫の花を股間の中心に押しつけて、ゆっくりと水辺に寄ってきて、それを股間で押して水にぽとんと浮かべる。

 立ちあがると身体をこちらに向けたまま二つに折り、ゆっくりと上半身の衣装を外す。そのまま上半身を水のほうに深く折って、両手を水に漬け、置きあがると両手を胸で隠す。胸元には鈴のついた紐を持っていた。水中から拾い上げたのだろう。鈴が6つほど等間隔でついたその紐を胸元で握りながら、まっすぐに向き、静かに水の中に入る。水は15センチほどか。そこでスポットを浴び、時計回りに小さく跳ねながら回転し始める。リンリンリンという鈴の音とともに、長い髪を後ろでちょっととめた黒田が、白い衣装で上半身裸、鈴の紐とともに胸を押さえ、水の中に足を浸して回転しつづける。古代から立ち会われた女性による儀式の踊りのような、奇妙な雰囲気が漂う。

 

◆パチパチパンチ

 すると3人の女性が暴れるように、帯状に置かれていた花を水に投げ込み始める。やがて真中の女性は座りこんで、水に落とした花を食べ始める。奥の足場の下の2人が上半身裸になり、黒田と同じように胸を押さえて鈴の紐を持ち、リンリンリンと回転する。さらに暗転すると、手前にいた3人も半裸になり胸を押さえて回転する。6人の女性たちが乳房を押さえてリンリンリンと鈴を鳴らして回転する場面を、人は想像できるだろうか。

 暗転して、キングクリムゾンの『21世紀の精神異常者』をストリングスが演奏した音楽がかかる。タイトル通り激しいインパクトのある有名な曲。そのなかで中心にいた背の高い女性が両手を外し上半身、乳房をさらけ出して両足をふんばり叫びだす。音楽で声は聞こえない。すると口に鈴の紐をくわえて、身体全体をゆさぶり紐を回転させる。猛獣使いと猛獣が合わさったような、それが半裸の女性。クリムゾンの曲と合まってなんとも奇妙な、おかしい光景に思わず笑い出してしまった。

 さらに追い討ちをかけるように、彼女は自分の上半身を平手でパチ、パチとたたき始める。最初はゆっくりだが次第に速く激しくなり、肌が赤く染まってくる。女性が行うパチパチパンチだ、解体社だ。思わず笑いもとまり、この異常な情景に戦慄を受け、感動している。しかしそれだけでは終わらない。

 

◆衝撃の墜落

 暗転して黒田が青い衣装で登場し、ゆっくりと中央で回転し始める。冒頭のシーンに帰っていく光景だが、衣装は白から青に変わっている。背景にある装置は白く塗られた鉄の足場のようなもの。1段目が2メートル半くらいの高さ。これまで、その下で女性が回転して踊ったり、走ったりしていた。その上にはしごが5つ立てられ、はるか上の2段目にかかっていた。

 たぶん女性たちが登っていってフィナーレかなと予想する。ところが、その2段目のさらに上に、5人が白いスリップのような衣装で登場する。2段目から3メートル近い高さ。合わせて5~6メートルはある。前から3列目で見ていて、かなり高い遠い印象。ああ、はしごでゆっくり降りてくるのかと思うまもなく、ドンっという音と同時に会場が揺らぎ、女性たちの姿がない。手前の段、1段目に落下してきた。ショック、戦慄が背筋を走る。普通に落ちたら怪我をしかねない高さ。1段目までは3メートル程度、合わせて5メートル以上の高さから女性が落下する。舞台上では黒田が回転している。ああ、凄い幕切れだと思ったら、女性たちが起きあがってパラパラとはしごを登っていく。そのためのはしごだった。落ちるだけならはしごはいらない。そして、ドン。再び落ちる。ほぼ同時。そしてまた上がっていく。次第に揃わずバラバラに落ちてくる。少なくとも5、6回繰り返し落ちる。

 そのなか、舞台では黒田が回転をやめて、ソロを踊りつづける。バレエ的な動き、コンテンポラリーの動き。そして黒田は手前の水に入り、水を掻き飛ばし、激しく狂乱するように踊りつづける。今度はこの激しい踊りに目が離せない。この黒田の凄まじいソロが終わって、舞台が終わる。

 

◆凄まじい舞台

 バレエ、コンテンポラリーダンスなどの動きの美しさ、面白さも表れていた。しかしそこにさらに奇妙な動き、日常の動きを超えたものを盛り込んだ。同時に、女性のもつエロティックなイメージを露呈させ、他方、パチパチパンチのようなおかしな世界を演出する。それらが盛り込まれながら、最後の墜落は、その全体を崩壊させるかのような力技。これらすべてが絡み合うダイナミズムと美しさ。これまで見たことのない世界だ。そのいずれも、身体がぎりぎりに突き詰められたとこから生み出されている。倒れ、投げ出され、墜落する女性の身体がそれを作り出す。この舞台は、身体がそのものが厳しく現前する、凄まじいものだった。

 これに匹敵するものをしいてあげるなら、ピナ・バウシュのいくつか、70年代の唐十郎、サシャ・ヴァルツの『Body』、初期のフォーサイスくらいじゃないだろうか。うーんまいった。目には落ちる姿と、水の中で回転する黒田、耳には鈴の音と落ちる音、クリムゾンとロメジュリの音が混ざり合って、いまもまだ残っている。

 見終わって打ちのめされたまま、会う人ごとにいう。あの舞台を見た人は、黒田の舞台はこれから見逃さないだろうと。次に何が登場するのか。どういう世界を作り出してくれるのか。期待と恐れを込めて黒田育世の舞台を見つめたい。

Batikのサイト

http://my-bb.com/batik/ 

2004年04月01日 17時02分31秒

 

 

「グラン・プティ(大きなプチ)」

●ローラン・プティ『ピンクフロイド・バレエ』

                   2004.2.5,7, NHKホール

                   志賀信夫

 

 

◆プティのダメ出し

 今年80歳のプティは、世界のバレエ史に残る振付家である。パリでダンサーとして活躍し始めてから、ピカソ、コクトーなどと交わって仕事をし、40年代から多くの作品を振付けてきた。50年代はハリウッドのミュージカルを振付け、またバレエの『若者と死』などの代表作はいまも熊川哲也などが踊る。創作意欲は旺盛で、一昨年の『デュークエリントン・バレエ』など新作の評価も高い。

 ここ数年毎年のように来日し、牧阿佐美バレエ団や新国立劇場などで制作をしている。今回は、73年にプログレロックのピンク・フロイドと共演して制作したバレエを日本で公演した。97年にマルセイユで久しぶりの再演を行っているが、今回は牧阿佐美バレエ団との制作で、プリマの草刈民代などに新しい場面を作って振り付けた。プティが高く評価して、パリオペラ座にも呼んだ上野水香などのバレエ団のメンバー以外に、オペラ座のシャーロット・タルボット、マルセイユバレエ団のリエンツ・チャンなど、海外からのゲスト、国内からも客演を迎えて、充実した舞台を作り上げた。

 

 ゲネプロを見る機会を得た。NHKホールは広く、その1階中央にプティらスタッフが陣取り、通しでステージが始まる。しかしプティは、途中気になると、すぐに中断し、舞台に駆け上がって指導する。手すりもない階段をちょっと不安定に舞台に上がり、ダンサーに近寄って振付けたり、下から声で指示したりする。多少英語も使うが、基本はフランス語で、通訳が追いかけて日本語に直す。

 ダンサーたちもプロなので、ほとんどがすぐに理解して動きを変える。しかし少しずつ新しい動きを入れたりする。特にラストのアンコールの場面、静止したダンサーたちが徐々に手をつなぎあっていく場面は、何度もダメ出しをしながら作り上げていくものだった。

 終わったプティに一言だけ、73年との違いを尋ねた。「変わった点は」との問いには、草刈の場面など新しい場面を振り付けたこと、ソロが多くなり、妻(ジジ・ジャンメール)には、「ソロが多すぎるわよ」とダメ出しされてしまったたことなどを語った。そして、「変わったのはどのくらいか」との問いに、「うーん」「20%くらいか」「そんなんもんだ」という答えだった。

 

◆幻想的な群舞

 本番の舞台、やはりダンサーの気合と集中が違う。そして大きな違いは、アンコール。有名な曲「吹けよ風、呼べよ嵐」の部分がリフレインされるが、プティが登場して歓声に答えたあとの、二度目のアンコールでは、舞台が背後の大スクリーンに写しだされて、躍動するダンサーたちがアップで写しだされる。

 その巨大な姿と手前の群舞が対照的で美しく、時折、フィードバックにより鏡を合わせたときのように、同じ映像が繰り返されていく。その場面など幻想的で、現代的パワーに満ちていた。ホリゾント手前に紗幕を下ろしタイトルアニメーションを流していたが、そのあと使わないので「もったいない」と思っていたら、アンコールに効果的に使った。全体に装置や照明などにあまり凝らなかったことから、おそらくプティ自身、生の踊りを見せることにこだわったため、舞台の本体には入れずアンコールにのみ使ったのだろう。そのため、最後のこの部分は、音楽と一体となって観客に迫ってきた。

 踊り自体、動き自体に新しさを感じさせる部分は少なかったが、冒頭、菊地研のソロでシンプルに始まり、男性によるソロパートがかなり多く、リエンツ・チャンのソロなどには身体の強さがよく出たバレエだった。また、草刈がリエンツ・チャンと踊るパ・ド・ドゥはそのなかで、動きも新しくリフトされ空にかけあがる場面はとても魅惑的だった。上野の動きは、草刈のエレガントに対してみずみずしく輝いていた。またシャーロット・タルボット、マリ=アニエス・ジローらの踊りは、技術の高さと身体の強靭さを見せ、バレエ全体のレベルを引き上げていた。特にジローが男性たちと踊るコミカルな場面は印象的だった。また、アンコールに代表されるように、牧阿佐美バレエ団の群舞は迫力があり、男性と女性が同数集められたパワーに、ピンク・フロイドの音楽が幻想的にからんでいた。

 

◆光る辻本

 日本の男性ダンサーの客演では、特に辻本知彦が光っていた。独特の癖のある動きは、バレエ・プロパーではないものを感じさせ、アンコールで披露したストリートダンスの巧みさから、そこにルーツを持つダンサーかとうかがわせた。バレエダンサーにひけをとらないどころか、さらに魅力的で、アンコール時での圧倒的な拍手の多さは、彼に対する評価の高さを示していた。

 後で調べると、ダンサーなどのグループ「ダイヤモンド・ドッグス」のメンバーで舞台に立ち、現在は、金森穣が舞踊の芸術監督に就任した新潟市民芸術文化会館のレジデンスカンパニー「Noism 04」のダンサーだという。金森の6月に予定される東京公演など、これからの活動が楽しみだ。その公演は観客オールスタンディングだというがどんな舞台になるのだろうか。

 先日の上田遥振付『ロメオとジュリエット』でも、元コンボイ・ショウの橋本拓也が活躍していたが、これからはストリートダンス系のダンサーが現代ダンス・バレエ界で活躍する時代といえるかもしれない。

 今回のローラン・プティの舞台は、フォーサイス、キリヤンといったコンテンポラリーダンスや、最新のバレエの斬新さと比べれば、はっきりいって物足りない。しかしあくまでバレエという枠組みのなかで観客を楽しませ、かつゆるぎない上品さを保ったプティのバレエは、踊りの一つの完成形を示すという点からも、そのクオリティの高さは間違いがないといえるだろう。

 

2004年04月01日 15時27分57秒

 

 

「日常と過剰と」

●『ドライフラワー』ニブロール、振付:矢内原美邦、2004.2.29、パークタワーホール

 

                                  志賀信夫

 

◆普段の動きから

 どうしてこんな舞台が作れるんだろう。見終わった瞬間の感想だ。

 ダンスの動きは、女性たちが絡み、相手を動かし、離れ、動き回るというもの。時にどつき、倒したり、いたぶる。しかしそれぞれが短時間の接触で、動いたり、横になったままだったり、とさまざまで、かつ粘着的ではない。

 めちゃめちゃ変わった動きではない。日常の動きの延長にあるような、単純な動きをちょっと強調した程度。そこにところどころダンスらしい動きが入るが、「いかにもコンテンポラリー」というエッジの切れる新しいものではない。普段の動きや癖を強調したものだ。それが音楽、映像、美術が絡み合ってなんともいえない世界を作る。

 

◆康本雅子

 第1幕、ドラムンベースのような強いビートのドラムが中心にエレクトリックピアノとソプラノサックスの音楽。フュージョン系ジャズっぽいがシンプルな音のなか、舞台手前に置いたそれぞれ1畳程度の白い台に女性4人。1人(康本雅子)は上手側の台に仰向けに倒れており、音楽に呼応して痙攣する。格子状に置かれたほかの台の3人は激しく踊る。4人とも真っ赤な衣装。特に倒れた康本はカルメンを思わせるフラメンコ風のロングドレス。両サイドと上から当たる照明と激しいリズムのなか、位置を入れ替わり踊りつづける。舞台からはみ出すような観客席目の前の位置。音と真近さにインパクトがある。

 そして倒れていた康本も置き上がり、入れ替わって踊るが、彼女だけ異質な存在。ロングドレスにショートカットの後ろを鶏冠のように立て、背も1人高い。激しく動き回る3人に対して、「人形」が混ざったような異物感がある。

 白い台を離れると、中ほどと奥にある左右に広がっている照明の細い帯をたどり、それぞれ去っていく。再び登場すると、4人はそれぞれ絡む。しかしパドゥドゥとかトロワといった形ではなく、1人が1人に、1人が2人に絡みすぐに入れ替わる。康本はそのなかで、相手を引っ張ったり倒したりと少々凶暴な動きを見せ、その合間に壊れた人形のような踊りを踊る。髪の長い1人が言葉を発し叫んだりするが、音楽のため音であまり聞こえない。背景には雪の降るような映像。音楽はテクノっぽい、あるいは抽象的な音に入れ替わり、ダンサーの役割、動きも変わってくる。相手を倒してその背の上に立ったりなど過激な動き。一瞬でまた離れ、攻撃していた康本が逆に攻撃されたりする。

 

◆OL矢内原

 2幕目はノイズ的な音のなか、上手奥に長椅子が運ばれ、OLっぽい普段着の女性が座る(矢内原)。そこに4人はパジャマで登場し、さまざまに関係性を持って踊る。舞台奥ホリゾント手前に帯状に左右に広がる光。そのなかを白い衣装でボストンバックを引きずる男が登場。引きずって袖に消えるが戻ってきて、長椅子の矢内原の隣に座る。彼女は悩み事を抱える風情で時に苦しむように身体を曲げる。と思うと上手奥袖に向かって走りだすが、光のなかで滑って倒れる。

 そのなかで4人は、それぞれ倒れたり起きたり絡んだり離れたりを繰り返し、素速く動き回る。矢内原は再び長いすに戻り、今度は立って4人とも絡み入れ替わる。男性は手前にきて両手を広げ片膝を折って万歳のポーズ、後ろを向いてポーズしてまた戻っていく。これを繰りかえす。背景にはアリが巣を作るような、侵食するような映像。そして花などのアップ。そして音楽が激しくノイズ状態になっていって、登場人物は消えて行く。

 

◆過剰な表現

 3幕では4人は白衣、医師のような衣装で踊る。さまざまに絡み、時に声を出し、観客に訴えたりする。音楽は再び少編成のジャズ、インプロビゼーションのような音。背景には動物のアニメーション。黒いバックのなか白い鹿の群れが肉食獣につかまり殺されたり、象が登場するなど、モノクロの昔っぽいアニメが効果的だ。そして映像は執拗に降る雪か花びらのようになり、音楽も激しく高まるなかで、紙吹雪が振り、執拗なほどのリフレインによるフィナーレへと突入する。

 矢内原は、普通の人間の動きなどに着目して、それを過剰にしていく。人間同士の関係性を動きで表現して、そのなかに日常で起きるちょっとした争いなどを描いていくこと、こういったことを動きのモチーフとし、過剰化、重層化して、物語性を加えて新しいダンスを創造している。

 いまこのような日常の動きを使うコンテンポラリーダンスは多いが、矢内原はそれを独特の美学で構成する。彼女自身が、「過去の瞬間をフリーズドライ化して、現在として表現したい」とを語っているが、その視点がこのダンスを独特の優れたものにしている。そして、単独でも十分鑑賞に耐えるオリジナルの音楽と映像が、非常に合った形でこのダンスの舞台化に貢献している。このようなコラボレーションはめったにない。

 前半特に康本雅子の動きが際立ったが、その個性が作品にアクセントを与え、見応えのあるものにしていた。他の女性たちもそれぞれ個性的で、それが輝くのは、ダンスの固定メンバーを持たないニブロールで、ダンサーが常に新鮮な気持ちで踊っているからではないか。この個々の個性の表出と、映像、音楽との素晴らしい重なりが見事な舞台を作りだす。そしてその中心にあるのは、日常から導き出される過剰な動きへの矢内原の執着だ。この独特のフェティシズム、美学がニブロールの最も重要な魅力といえるだろう。

 

2004年04月01日 14時10分50秒

 

 

「大野一雄、ストリートに踊る」

●街頭舞踏             2004.2.1

 横浜馬車道            志賀信夫

 

◆街頭で踊ること

 いまはホールや劇場で公演が行われる舞踏も、ストリート、街頭で踊られることが多かった。有名になるまでは劇場やミニシアターの公演も自主制作で、それ以外は町の巷に現れて踊る者も多かった。田中泯も長く全裸に近い姿で屋外で踊り続け、また70年代は歩行者天国で踊る人もたびたびおり、いまでも新宿では赤色彗星館やabe M'ARIAなどが、定期的に踊っている。土方巽、大野一雄もかつては目黒の通りでハプニングを行ったし、土方は細江英公の写真集『鎌鼬』のため東北農村で踊り、大野は『O氏の肖像』などのために屋外で踊っている。

  ただ最近はそういう機会も少なくなり、最近、大野一雄が「街頭」で踊ったのは2000年、四谷三丁目の商店街の小さなギャラリーで開かれた細江英公写真展のときくらいだ。そのときはもの凄い土砂降りで、参加した大野はもちろん、その研究生たちや観客もずぶぬれで、独特の熱い一体感が生まれたものだった。

 

◆馬車道

  今回はみなとみらい線21と横浜馬車道駅の開設に合わせた記念イベントの一つで、2004年2月1日、午後3時から馬車道駅近くのライブ喫茶サモワールの前で行われた。横浜では本牧ジャズストリートなど、街頭での演奏活動も積極的で、数年前から大野研究所の研究生らは、ジャズと舞踏という形で、このような催しに参加してきた。

  また、今回、BankART1929として、馬車道付近の銀行の古い建物2つを、ホールやギャラリー、資料館として活用し、それをSTスポットなどの団体とともに、大野舞踏研究所のスタッフが担当することになったことも参加の一因だ。この企画はNPO横浜コミュニティデザイン・ラボにより企画運営が行われるという。しかしなんといっても電車の開通記念イベントなので、屋台は出るは人力車や馬車は走るは昔の洋装の女性がシャナリと歩くなど、舞踏やアートに限った祭ではなく、むしろ街頭の屋台祭にジャズと舞踏が乱入するという感じだった。

 

◆ジャズと舞踏

  このコラボレーションは、海外でもトランペットを持って飛び回る庄田次郎やサックスの尾山修一らのグループが、フリージャズ的なセッションを行い、そこに静かに異形の者たちが現れるという形で始まった。道路の四方から音楽が響くなか、黄金のチャイナドレス女(大石宏子)、金襴緞子女性、裾をからげた男(加藤道行)、着物に金髪の男(成瀬信彦)などが登場し、大野の舞台にしばしば登場する青い馬を被った女(相楽由美)も出現した。ゆっくりとした動きで、時にうずくまり、急に激しく動くなど、街路ならではの自由な雰囲気のなかで踊りが続いた。

  ジャズが休止すると、隣に仮設舞台が作られ、ソーラン節やら日舞が中年女性や子どもたちで演じられたが、それを尻目に、奇妙な姿の者たちが踊り続け、黒いブリーフの男(後藤茂)が街頭に吊り下がるなど、奇妙な雰囲気も高まった。

  日舞などが終わり、再びジャズとのフリーな交歓。煮詰っていくうちに、生け花がいけられ、そこに車いすの大野一雄が登場。付き従うは新聞紙を頭にかぶり黒縄で縛った女性二人。観客は大野に集まり密集状態。携帯を構えて撮影する者が多いなか、静かに生け花に向かってくる。何度か立ち上がるようにも見えたが、結局車いすのまま、居心地悪そうに座る。観客に答えて何度か左手で軽く踊ろうとするが、モティベーションが続かないのか、結局長続きしなかった。しかし観客は大野一雄を知る人も知らぬ人も、大野の姿と、異形の者たちの中に混じり合っていることに、なにかの快感を得たようだった。

 

◆街頭と前衛

  大野一雄の踊りは立ち上がらなかったが、大野が街頭に出たことの意味は大きい。昨年、荒川修作の養老天命反転地公園でも屋外で踊ったが、人通りの多い街頭で踊ることの意味はまた違う。特に人々にまみれながら、多くのカメラの視線を受けて踊る研究生たちと、その先導で大野が登場する姿は、やはり優れて美しいものだった。

  そして同時に、舞踏というものは、日常を越えて非日常を示すがために、時に舞台を飛び出し、あるいは舞台を壊すものである。先日の伊藤キムの『劇場遊園』は第1部では、ステージの周囲の待ち合う空間を舞台として1階から3階まで同時多発的にパフォーマンスが繰り広げられ、第2部では、ステージと観客席を完全に逆転させて優れた舞台を展開した。このような舞台解体の試みは、もちろん舞踏や前衛芸術運動のなか、1950年代後半から始まっているといえる。

  しかし、やはりなんといっても大野一雄が1977年、『ラ・アルヘンチーナ頌』で復活した舞台、冒頭真っ暗闇の中、観客席から白塗りの顔、黒い大きな帽子に深紅の花、長手袋をつけて女装した長い衣装を引きずりながら立ち上がり、バッハの『トッカータとフーガ』の響きを背景に、静かに舞台に上がっていく姿の衝撃に勝るものには、いまだ出会ったことがない。このようにして大野一雄は、いまも舞台そして街頭で、人々に衝撃を与え続けている。

  なお余談だが、その夜、大野慶人、小林嵯峨と研究生(熊澤彩花)、舞踏関係者らがくり出した老舗ジャズハウスでは、居合わせたピアニストらとの即興舞踏が続き、横浜の夜は更けていくのだった。

 

NPO横浜コミュニティデザイン・ラボ

http://www.yokohamalab.jp/creativecity/kenkyu3.htm

建物全景他

http://www.city.yokohama.jp/me/tokei/site/dcond/toshin/kannai/rekishijikken/

大野舞踏研究所

http://www.asahi-net.or.jp/~ab4t-mzht/

「劇場遊園」

http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/03-2-4-42.html

 

2004年02月13日 14時38分50秒

 

 

「ダンス白州」の輝き

●初日レポート         2003.8.10

 白州・身体気象農場      志賀信夫

 

井上みちる「微わらび」

坂本 公成(with 森裕子)

南  貞鎬(violin 三輪麻生子)

田辺 知美

 

 山梨県白州で舞踏家田中泯が、身体気象農場を開き、農業を営みながら舞踏塾を行っていることは、舞踊界ではよく知られている。そして毎年海外からの参加者を含め、フェスティバルを夏に開催しているが、ここ近年、ダンス白州として定着している。

 今年は8月1日から26日まで開催されるこのフェスティバルを訪れた。ワークショップがすでに始まっており、9日が前夜祭・オープニングで10日からダンスが始まる予定だったが、折からの台風でオープニングもこの日の夜に行われた。

 

◆井上みちる

 午後1時、井上みちるの「微わらび」が最初の舞台。農場母屋裏の田んぼの畦道遠方に、腹の膨れた女として登場する。臨月と見える膨れ方、白っぽい衣装を身にまとい、下手から上手方向にゆっくり動き、途中で身体をそらせてあえぐ。ゆっくりと苦しそうに下手に戻り、観客のいる方向に向かう畦道をゆっくりとたどる。畦道脇の小高くなった所に登ろうとして倒れ込む。起きあがり再びこちらに向かってくる。近づくにつれて、懐胎しているのは、衣装の中に何かを抱えていることがわかる。三分の一ほどくるとそれを取り出す。スイカだ。苦しみつつ、しかししっかりとした足取りで近づき、そのまま農場母屋裏の屋外調理場に入る。大きい調理台の上に登り、柱にしがみつく。そしてスイカを割って身体になすりつける。白もしくはベージュの衣装は汗とスイカの汁、身体に塗ったものでどろどろになり、全裸の身体が透けて見える。割ったスイカと戯れ続け、次第に天を見つめ、天を意識したポーズを台の上でとり、そして台から降りて天を見つめて終わる。

 臨月の女が子、胎児、あるいは巨大な卵を持ち、生み出してそれを食べ、ある種の法悦に至り空を仰ぐというイメージ。井上自身はワラビと胞子をイメージしたというが、身体自体と井上自身がしっかりと主張され、田んぼの中の農婦とも観音とも見える姿態が強烈で、集中が切れずに踊る姿から舞踏らしい緊張感が伝わってくる。フェスティバルのオープニングにふさわしく、観客を魅了した舞台だった。

◆坂本公成

 次の坂本公成は森裕子とのデュオ。農場母屋の前庭で行われた。二人は身体の一部を常に触れつづけるというコンセプトで踊る。腕、肩、腰などどこかがいつも触れながら相手の周りを回り、一緒に前庭を自由に動き回る。一方が中心になり他方が回転し、入れ替わり常に触れつづける。抱え上げられたまま相手の周囲を一周したり、交互にあるいは逆転、逆立ち状態に抱え上げて動き回るなど、身体と身体の接触だけをテーマに30分踊りつづけた。コンタクトインプロの部分を極端に拡張したようなものだが、間近で見る二人の動きはとても迫力があった。しかし広い舞台だったらどうだろうか。また、二人から伝わる精神的変化が乏しく、動きのバリエーションにとどまった感じだった。

◆南貞鎬

 次の南貞鎬は韓国の舞踊大学教授ときく。農場母屋の1階屋上にバイオリン引きが現れ、バッハの無伴奏ソナタを弾き始める。そこに黒い衣装の女性が竹箒を持って登場する。帚ではくマネをしたり、徐々に踊り始める。バレエの素養のあるきれいな動きに、屋上に寝転がったり、木の実をバイオリニストに投げつけたりなど独自な動きも混ざる。音楽もサマータイム、現代音楽的なものにも変わる。最後、屋根に張り出した木に絡むたたずまいはなかなかだったが、少々既視感のある踊りだった。

◆田辺知美

 刈り入れ後の田の一角に、縁台のようなものが据えられている。ここに白っぽい衣装の女が向こう向きに伏している。伏したまま足を動かす。破れたストッキングのようなものが、枷になってまとわりついている。そこでゆっくりと足を伸ばし曲げる。手を伸ばし、曲げ、上向きになり、こちら向きになり、身体を反らせ、上半身を縁台からはみ出すように曲げる。これらの動きは本当に緩やかで、身体がここに「ある」ことを感じさせる。音楽もなく、好天の田の一角に伏すこの姿は絵になっている。日が陰り、そしてまた照らす。とても緩やかな動きのため、観客はその天候の変化や飛ぶ虫や鳥、歩く黒猫などを意識し、自然の中の身体を感じとる。20分以上のこのような動きのあと、後ろ向きに立ち上がり、後ろ向きのままこちらに静かに向かってくる。頼りない足取り、揺らぐ病人のように、自然の中に「異」を持ち込んでいる。壊れた傘をさし、畦道に上がり母屋に向かって踊りは終る。シンプルだが、身体の動きに観客を惹きつけたいい踊りだった。

○玉川福太郎

 今回作られた新しい竹の舞台。太い竹が丸ごと床となり何本も敷き詰められた舞台。上がると足が竹踏み状態で心地いい。座るとちょっと太股や腰にはごつごつ痛いが、自然の林の中、爽快である。上手側に花道が竹で作られ、先には小さい小屋がある。そこから三味線の音が聞こえ、期待が高まる。三味線一本と浪曲師のみ。二人のコラボレーション。前座で出た女性はまだまだだが、熱心に観客を惹きつけようとする語りは楽しかった。

 そして福太郎。浪曲をこの場でなどという危惧を吹き払う素晴らしい声。林の中に響き渡るこの声は、声量迫力ともにオペラ歌手顔負け。もちろん発声がクラシックなどとは異なっているが、座ったまま出すこの声に圧倒された。語りも絶妙で笑わせるが、鍛え抜かれた声と芸の凄さには本当に脱帽。浪曲を生で始めて聞いたが、こんなに凄いものとは知らなかった。そして生ならではの観客との掛け合いと自然の中の声の力強さ。舞踏とコラボレーションをしたら、普通の舞踏家は食われてしまうだろう。日帰りのため本番の「天保水滸伝」が聞けなかったのが残念だった。

●アトラクション

 オープニングパーティはスタッフを含めて100名以上の参加者、子どもたちも混ざり、スタッフ手作りの食事は自然農法のものでどれも美味しい。今回で十五回目のフェスティバル、白州にきて二十年近い田中泯。挨拶では、「土地など一切を借りている。自然を所有するということにためらいがある」と語り、身体で自然と真剣に関わって歩む舞踏家の優しさと強さを感じさせた。

 パーティのアトラクションも盛りだくさん。韓国の宮廷歌謡「正歌(チョンガ)」を歌うカン・クオンスンさんの声は独特で繊細、高音はかなり声量もあるが、なんといっても節回しの独特さが魅力的だ。歌詞はなくメロディーだけのような曲で、現代音楽といっても通るようなちょっと抽象性がある、心惹かれる音楽だった。

 そして松元ヒロの話芸マイム。漫談にパントマイムを加えたものだが、マイムのうまさも半端じゃない。単純な「窓」のマイムも巧みな話術と展開で別物のよう。ニュースに合わせてのマイムはジェスチャーとマイムの中間で、シモネタ的動きも含めて大いに観客を沸かせた。また芸大サンバチームと御輿の共演はミスマッチが楽しく、観客も交えて踊り続けられたらよかったと思う。

 

 このように「ダンス白州」は自然の中で踊り、それを観ることが基本であり、その楽しさ、素晴らしさは体験しないとわからないだろう。踊りはまず身体からというところに、自然が加わり、この自然と身体のコラボレーションを体験すると、「装置もいらない。これで十分、これが最高」と思えてくる。この日の4人のうち2人が音楽もなく踊ったが、飽きさせなかった。観客同士や踊り手とも気軽に話ができるのも魅力。自然の中だからこそ、観客がいて、そのコミュニケーションで初めて舞台が成立することがよくわかる。自然の中で踊りが本当に輝く世界が、ここに間違いなく存在している。 

2003年08月14日 13時52分17秒

 

 

「病める子」

●「些細なこと」大倉摩矢子    2003.6.13

 横浜STスポット         志賀信夫

 

 舞踏に新しい皇女が登場した。

 5月16日にテルプシコールの「微熱な日々」でフルタイムのソロデビューを果たした大倉が、STスポットでの6月の公演で、その実力が本物であることを立証した。

 大森政秀の天狼星堂の一員として2月に赤坂ディ・プラッツで踊ったときに(公演:泥鰌のヒゲを見ていた…)、「ここにもしかすると舞踏の本質が見えるかもしれない」と思わせた。上手のスポットから下手にゆっくりと移動しただけなのだが、その動きの力で舞踏を感じさせたのが、貧弱な身体で幼女のような雰囲気をもつこの女性だった。

 このほのかな輝きに期待をかけてテルプシコールの舞台にのぞむと、ここには踊り、舞踏、踊ることを考え、感じ、戦う強力な踊り手があった。

 舞台左、下手から登場する彼女は白いランニングに履き古したジーンズ。何気ないようでありながら、自分の位置を確かめるように、立つ。腰をわずかに曲げたポーズ、リラックスした、しかし動きを意識した姿から、徐々に舞台中央に歩む。その動きは本当に緩やかで緊張がある。この時点で、すでに観客の大半は惹き込まれていた。この遅さでは、普通の舞踏家の踊りだと、観客三分の二が舟をこぐ。しかし彼女の動きは、その緊張感と集中力で観客の目を逸らせない。中央からゆっくりと前に進む。そして床に沈み込んでしばらくすると、床を掻きむしり始める。木の床をカリカリと引っ掻く。それは足先から次第に自分に向かう。身体を掻き始め、それは執拗なものに、次第に激しいものになり、狂気への入り口が見えてくる。

 この「掻く」という単純な行為に執着することで、大倉は完全に観客を味方につけた。身体を掻きむしることによって、大倉は私たちが自分の身体とどう向き合うべきかを示した。踊り、身体論などを標榜していても、ワークショップに通ったところで、私たちは身体に向き合えはしない。優れた指導者の言葉で錯覚するのは簡単だが、自分の身体からまず始めるという基本にはなかなか立ち帰れない。大倉の行為はその基本そのものなのだ。自分が意識していないフェティッシュ、執着、こだわりの行為を、意識して見つめることで、身体に出会っている。

 しかし大倉はただ掻いていたのではない。掻く行為は過剰になり自分への攻撃と思えるほど激しくなるが、それだけではない。大倉は自分の身体との向かい合うこと自体を、大事に踊りにしようとしている。それが観客にひしひしと伝わってくるから感動するのだ。

 

 そして6月のソロ公演。前回テルプシコールの新人公演として絶賛されただけに、苦しんだろう。しかし傍からのこんな懸念を吹き飛ばすように、大倉はさらに自分に向き合っていた。

 舞台上手の観客席隅から自然に登場し、自分の位置を決める。小さい舞台の上手手前端から静かに壁に沿って中ほどに進む。インド音楽のようなリズムの音がやみ、舞台中央に静かに動く。膝を曲げて両手を軽く前に出し、頭を少し揺らし、揺れる老女のよう。しかし足取りからわかるが、不自然な動きを避け、少しずつ丹念に進んでいる。ところどころ決まりすぎてポーズのように見える点が気になるが、中心まで進むと、緊張を伴った弛緩という雰囲気になる。中央から前に進んで静かに屈み、床に丸くなる。ゆっくりと身体を伸ばし、リノリウムの張られた床の目地に顔を押し付けて、鼻をのめりこませ、唇を目地につけ、あたかも反対側、地球の向うにつながる穴があるかのように、執拗に覗き込み、目地に執着する。ここで観客は、大倉のいつのまにか始まった、尋常でない偏執、フェティッシュな動きに惹きつけられる。床の目地をたどり、倒れ込みうごめく身体。そこには一切の虚飾を廃した人間の踊りそのもの、踊ることにのみ集中し、自分の中身を吐き出そうとする懸命の動きがあった。

 私たちはなぜ踊りに惹きつけられるのだろう。特に舞踏のような、技術を見せず、かつゆっくりとした踊りに何かを見出してしまうのはなぜだろう。日常の動きを続けても舞台に上げれば舞踏になることがある。それを見つづけてしまうのはなぜか。日常の動きのなかにも、個々にとっての非日常を見出すからだろう。踊りを見るということはそういうことだ。技術も関係ない。惹きつける力がある動きと身体。美醜も関係なく、人間の身体の動きそのものが人を惹きつける。踊りの魅力は、突き詰めるとそこにある。ここをしっかり見つめた踊り、踊りとは何かを考え、そのうえで踊る自然な踊り、そこから導く不自然な動き。これらは時に尋常でない感動を与えることがある。大倉はそのような踊り手だ。

  エドワール・ムンクに『病める子』という作品がある。病気の姉を描いたといわれるベッドに腰かけた女性の裸像だ。そして背後の壁に暗い影がのびている。大倉はこの病める子を連想させ、そして背後の暗い影を感じさせる舞台を生みだした。踊りとはなにか、舞踏とはなにかを感じさせてくれる神聖な舞台だった。

 

なお手塚夏子さんによる大倉さんのインタビューがST通信で読める。ぜひ。

http://www.jade.dti.ne.jp/~stspot/Mag/the_18th_okuramayako.htm 

2003年08月12日 14時30分53秒

 

 

「アメリカ」

 『アメリカ』原作フランツ・カフカ 構成・演出:松本修

         シアタートラム 2003年3月16日

                 長谷川健治朗

 

 2年前の同じ日、ぼくは同じものを見ていた。2001年3月16日、松本修演出・世田谷パブリックシアター制作の『アメリカ』の初演が行われた。開演に先だってまず驚いたのは、シアタートラムの構造の柔軟性だった。ロビーから劇場内に入ると、目の前は奈落。通常なら客席のあるところががらんどうになっていて、いつもなら舞台があるはずの空間に客席が設置されていた。公演が始ってさらに驚いたのは、役者たちは一体どこから劇場内に登場していたのかいぶかしく思えるくらい、あっちこっちのドアや床穴から出てきて、それだけでカフカの迷宮じみた世界が始っていたことだった。そして、さらに驚いたのは、場面転換するたびに主役を演ずる役者達が次々に入れかわり、それでいながら、それらすべて同一人物であるということが、奇妙にも了解できたことだった。登場人物の人間関係の接点がいまいちよくつかめないまま、その場その場のぎこちない行動が集積してゆき、理解に苦しむストーリーが淡々と展開ゆく。あっけにとられているうちに、場面展開の流れにはどういうわけか納得しているような、謎めいた舞台だった。場面転換の要所要所には、イデビアンクルーの井手茂太の振付が挿入されていて、不可解な世界に巻き込まれた主役がぽつりと佇む舞台は、一気に活気づく。

 あれから2年。今度はMODEの企画制作で、松本修が再びカフカの『アメリカ』トライした。舞台は文字通り180度転換して、通常のシアタートラムの形態になった。が、設営された舞台は、階層的な構造が実現されて、前回とはまた別の迷宮の一角が垣間見えるようだった。客席最前列の前には、奈落に沈み込むピットがあり、そこから役者達が出入りできるようになっている。また、本舞台背後には、トラスで組まれた、数階建てのバルコニーがあり、それがコの字型に劇場内側面を伝ってロビー入口へ周回できるようになっていた。前回のように突飛な形ではないが、スペクタクルな効果は大きくなったかもしれない。

 カフカの『アメリカ』は、その第一話が『火夫』として発表され、その後カフカが加筆し発展させたものだが、結局は完成をみることなく、カフカの主要な作品群と同様、病床の遺言で廃棄するよう指示したものを、敢えて公開した作品だ。そういった経緯もあり、この作品を『失踪者』と題することもある。『火夫』は短編の、ちょっとした成長物語のような趣のある作品とも言えるが、それが、徐々にカフカ的に発展する。つまり、つい先程までは何ということのなかった日常が、突如として非現実的な展開を始めるようになる。それ以前の文脈の整合性を飛び出して、溢れるようにしてひろがってゆく謎の世界には、しかし、困難な問が秘められている。ありえないような世界の中で、登場人物達は、恐らくは矛盾に満ちた世界からの解放を求めているのだろう。しかし、そんな世界の中でもがいているうちに不可解な行動に走ってしまう。極端な規律にしたがったり、あるいは、規律の運用をめぐる解釈をめぐっての果てしない争いを続けたり。主人公カール・ロスマンは、そんな世界に冒険をいどむ。ところが、冒険の途中で巻き込まれてゆくのは謎めいた世界で、それに関われば関わるほど、その世界から締め出されてしまう。そして、やむをえず放浪することになる。そしてまた新しい世界に向き合うのだが、それも束の間で、再び世界は迷宮へと発展する。 いつの間にか建物は巨大化し、迷路が出来上がり、思いも寄らない不気味な奥行きが姿を現す。そのスペクタクルな場面成長はカフカの魅力の一つだ。そこで重要なことは、登場人物を包むこういった光景がどんなに理不尽であっても、そこで進行する物語の筋をなす部分、つまりそこにあるとおぼしき律法は、少なくとも論理的には理不尽とは言えないというところにある。

 舞台は、ヨーロッパからやって来た船のデッキから、接岸間近のアメリカ大陸を眺める人々の、遠い視線ではじまる。それぞれの乗客が希望の眼差しで遠くを見つめる。汽船の警笛が腹に響き、いよいよ上陸となると、一気に慌ただしい空気に転換する。そこで、主人公カール・ロスマンが登場する。

 主人公カール・ロスマンは、女中をみごもらせたことによって勘当され、ヨーロッパからアメリカに送られれてきた。当地で伯父と出会い、養育を受けることになる。伯父はカールを熱心に教育し、規律正しく、規則的な生活をさせる。ところがある日、カールは伯父の教育方針に反するような行動、と言っても、英語のレッスンを休んで伯父の友人宅(ポランダー氏)を訪問しただけなのだが、そのために家から放り出されてしまう。その放り出し方は、カフカ的に手がこんだものとなっている。詳細な演出はなされなかったが、そのあたりは解説を要するので、ここに記しておこう。

 まず、カールを家から放り出す文言を文書化する。そのとき、放り出されることが免れる期限を設定しておく。つまり、その時間内に家に戻っていれば、カールを追いだすことが論理的でなくなるようにしておく。それでいながら、ここが意地悪なところだが、その期限が切れる瞬間にこの手紙をカールに手渡すよう、第三者に依頼する。この第三者が伯父の友人、グリーン氏である。ややこしくなってきたが、この文書を受け取った時点で、カールが伯父の家にいれば、伯父の意向に沿った行動をしているという理由でこの文書は無効になり、ポランダー氏のところにいれば、伯父の課した規律を破っているという理由により、その文言にしたがってカールは伯父の家を出なければならなくなる。もし、カールが家から追いだされずに済む方法があるとすれば、グリーン氏の善意だけだ。その文書の内容を、恐らくは知っていたとおぼしきグリーン氏だけが、カールを期限内に伯父の家に連れ戻すことが出来たはずであった。が、そうはならなかった。グリーン氏はカールのそばにいながら、期限切れまで何も通告しなかった。これはもちろん、伯父の命令に忠実に従ったまでのことで、その命令の文言からグリーン氏を難ずることはできない。カールの追放が決定したそのとき、カールの訪問先の邸宅は、どこまでその奥行きがあるのか分からない不気味な城にまで成長していた。

 廊下には「二十歩ごとに召使いがロウソクを持って」立っている。廊下と階段は迷路のように続き、いくつもの部屋が並ぶその奥には礼拝堂まである。そこの邸宅の娘はカールをとある一室に連れ込み、人が変わったように手荒く扱う。気を悪くしたカールはこの館を出ようとする。そのとき、さっきまで会食に同席していたグリーン氏から、追放を告げる手紙を受け取る。ロウソクのちらちらと揺れる焔の、丸い光の輪がいくつも浮ぶ舞台は、妖しげな気配が漂い、「謎」が垣間見せる一瞬の不思議な美を演出した。

 

その美を垣間見るや、新しい迷走が始まる。カールは館を出て、街の往来を突っ切って、新しい世界へ行こうとする。その場面転換には井手茂太の振付による動きが挿入されていた。カールが押しのけてゆく街中の群衆のなかに、前のカール・ロスマンとその後のカール・ロスマンがいる。これはどういうことかと言うと、主人公カール・ロスマンは、何人もの役者によって、場面転換する度に、入れ替わり立ち替わり演じられるというわけだ。しかも、他の登場人物も一人で二役も三役もこなす。つまり、主人公を降りたと思えば、次のシーンでは召使いになり、その次にはエレベーターボーイになる。しかも、主人公は女性が演じたり男性が演じたりと、目まぐるしい。ぶっきらぼうな口調と、ちょっとわざとらしい仕草。そのぎこちなさが、カールの素直な持ち味となってあらわれているので、見ている側は、役者が入れ替わってもそれほどの違和感を感じない。

 さらに踏み込んだ見方をすれば、俳優が入れ替わることによって、物語進行と同時に徐々に寓意化されてゆくカフカの登場人物の本質が、そこに浮かび上がってくる。カフカの寓意的な人物を演ずる俳優は、複数の人物を演じないと、人物ではいられなくなってしまう。そうしないと、だんだんカフカの寓意性に呑み込まれてゆき、名前まで失い、単なるアルファベット一文字で表示可能な、入れ替え可能な何かになってしまう身の危険を感じているかのようだった。役者が入れ替わるのはまさに謎の世界に押しつぶされそうになるときだったし、そのように見ると、このような主役を入れ替える演出法は、カフカの文芸手法に関して、戯曲化することによってその構造そのものを描き出すことに成功した稀有な例とも言えるように思う。これは、おそらく、俳優達自身が台詞を書き起こしていった努力の成果かもしれない。

 

 特に印象的な場面は、最後の場面、オクラホマ野外劇場のシーンだった。これはカフカ自身が好んで朗読したとされるシーンで、どこか殺伐とした、それでいながら幻想的な光景は、とてもよく演出されていた。野外舞台の上で、巨大な白い天使たちがトランペットを吹いている。これは、天使に扮した役者たちが脚立の上に乗り、長いおひきずりの衣でその脚立を隠しているので、目の前には巨大な天使たちが立ちはだかっているように見えるのだが、カールが放浪と冒険を繰り返す中ではじめて出会った、不思議な明るさを持った光景だった。

 

 カール・ロスマンが新しい土地での放浪の果てに行き着いたのは、オクラホマ劇場という、求職者はだれでも採用される実態のつかめない劇場であった。カールは就職の面接会場の窓口をたらい回しにされる。窓口が経歴別に細分化されているためで、カフカのもう一つのテーマ、人間社会における官僚的な機構が明るみに出る瞬間だ。その機構の中をくぐり抜け、漸くのことで、その割にはあっけなく、俳優として採用されることになる。そして、他の志願者たちもぞくぞくと劇場要員として採用され、舞台上に勢ぞろいする。そこにはカール・ロスマンを演じた役者がすべてと、その他の人物を演じた役者も混ざっている。無条件に受け容れられた彼らが向かうところは、オクラホマ。その夢の街へは列車で移送されることになる。そのとき「労働は自由にする」というナチスのスローガンの字幕が出される。すると、原作では希望に満ちていた列車の移送のシーンが、一転して、強制収容所へ向かう貨車の、歴史的事実を想起させないではいられなくなる。初演ではヒットラーの演説の音声が列車の音響にコラージュされていた。今回の演出ではそれがカットされていたが、たったこれだけの違いが、メッセージに質的な変化をもたらすことになったように思う。なぜなら、これはユダヤ人だけの問題ではなく、さらにはドイツ人だけの問題でもなく、もっと普遍的な問題として捉え直されたかのように感じられるからだ。すなわち、虐殺された人間と生き残った人間の間には必然的な理由などなく、誰もが被害者になりえた、という可能性を生きることが、倫理ではないか、というメッセージが、より濃厚になったと同時に、そういった問題意識を希釈してしまう現代的なシニシズムの事情をも提示したように思える。ここは是非、議論してみたいところだが、入れ換え可能性しか生きられない閉塞感と、入れ換え可能性を生きる倫理との、現代的なテーマが、舞台にはあるように思えた。それが、登場人物を入れ替える演出法の中にすでに秘められていたことを、あらためて発見したように思う。そのように感じた途端に、統一を保っていたカールの人物像がたちまち複数の人物へと分解して、混乱のなかに消えてしまうかのようだ。その壊れやすさが、提示するものを目まぐるしく変身させてしまう。

 ところで、この演劇にはカフカとおぼしき人物が登場する。伯父の家を追いだされ、勤務していたホテルを追いだされ、歌手ブルネルダの使用人として働かされる羽目になった場面でのことだ。ブルネルダは歌手ということになっているが、近所からは歌うことを禁じられている。が、わめき散らすことは禁じることが出来ないので、ブルネルダは大声でどなり、次から次へと身のまわりの世話を命じる。それに嫌気がさし、カールはそこから抜け出そうとするが、失敗する。その邸宅に軟禁されることになったカールは、バルコニー越しに隣近所の学生風の人物と対話をすることになる。その人物をカフカに見立てたところは興味深い演出だ。おや?・・・この俳優は一度カール・ロスマンを演じたのではないか?・・・さらに、この格好の男を、既に街中の往来の中に見かけなかっただろうか?・・・ちょっとした絡繰が興味をそそる。不満をかこつカールに対して、この人物はその場に留まるよう、忠告する。その忠告に従ったというわけでもないのだが、カールが逃亡を諦めかけたとき、ひょんな拍子でその邸宅から解放される。そして行き着いたのが、オクラホマ野外劇場だった。

 この謎の人物も、最終の場面、すなわち列車でオクラホマへ移送されるシーンにそれとなく居合わせ、ひっそりと佇んでいる。「目標だけがあって、そこに到る道はなく、あるのはためらいだけで、それがいつの間にか道となる」というカフカの言葉が脱力感をもってそこに漂う。観客席の照明が明るくなったとき、いつの間にかそれが消えているような手ごたえを感じることの出来る、静かな幕切れだった。

 

 付記

 最後のオクラホマ野外劇場のシーン、つまり、競馬場に設営された野外舞台のシーンと、それとはまったく関連はないものの、思い起さざるを得ない現実のシーンは、カフカと同様に、ドイツ人であることが困難であったベンヤミンだ。ベンヤミンがフランスへ逃れたとき、ドイツ人であるという理由で拘束されることになった。強制労働にしかれることになったその集合場所が、競輪場であったというのが、歴史の奇妙な、タチの悪い偶然のように思える。そんな光景をすでに先取りしていたような錯覚を生じさせる力が、カフカの作品には秘められている。

  

2003年04月22日 20時54分40秒

 

 

「自然体と振付」

 

●―イムレ・トールマン、黒沢美香、加藤道行―

                           志賀 信夫

 

 

■「enduring freedom」イムレ・トールマン

     voice:Keiko Higuchi, cello:Yasumasa Morishige

                六本木die prate、2003.3.3

 イムレ・トールマンは美しい身体を持っている。

 つるりと剃った頭の形も、わずかにとがって愛らしく、鍛えられたたくましく、かつすらっと細長い身体を持っている。しかしイムレは、その美しい身体を前に折り畳んで登場した。深くかがんで極度のお辞儀をした格好、力が抜けてだらんとした、息づくオブジェのような奇怪なフォルムを全面に出して、舞台中央にゆっくりと進んでくる。そして徐々に力が入り、ゆがんで立つ。まっすぐに立つことを意識しながら、それを拒否した動きだ。立ち上がってのびてしまうと巨大な樹のようにもなる身体が、ゆがめられ、立つことに、そして立てないことにこだわっている。歩くこと、動くことにもこだわる。その緊張と意識が伝わってくる舞台だった。

 音楽はここずっとイムレと共同制作をしている二人で、息継ぎを感じさせないヴォイス、旋律を弾かないパーカッシヴで前衛的なチェロとの相性もいい。音楽が激しくなっていっても、イムレは決してそれに合わせて高まったり激しく動いたりはせず、自分の緊張をたもちつづける。ここに彼の踊りへの意識の高さが表れていた。

 これまで即興中心だったが、今回はある程度決めごとがある舞台。イムレは「振り付けることの意味を新たに感じている」と語っていた。

 

 

■「薔薇の人 桃の園」黒沢美香

          助演:澤宏、シアターX(カイ)、2003.3.4

 

 黒沢美香ば舞踏、ダンス界では知られた存在だが、今回初見で、彼女の強いコンセプトを廃した踊りにインパクトを受けた。

 舞台の下、観客席前の空間に、左右からスポットが当たり、黒沢は観客席背後の入口から跳ねるようにして登場し、音楽に合わせて、舞台の手前で跳ね続ける。フランス人形のようなひらひらした衣装、手にはバトミントンのラケット。しばらく行きつ戻りつしながら跳ね続ける。やがて入ってきた入口から退場し、今度は歩いてそこから再登場して舞台によじ登る。

 そして黒沢は踊り出すのだが、踊るといっても、非常に自然体のままの動き。踊りに入るときも出るときも、すべて何の気なしに気負いもなく、てらいもなく踊っているように見える。舞台中央にある黒幕の手前、舞台の前半分で踊り続け、その幕が開くと向こうはおもちゃ箱、学芸会の飾り付けのようなものがぶら下がっている。薔薇色の照明に照らされたこの空間の登場はよかった。下手に奇妙な風体の男、澤が一人立ち、黒沢と関わり出す。

 中央上手寄りに奈落のような空間があり、澤はそこにスモーク発生器を持ち込んで煙を満たしたり、彼女に絡んだり、時に着替えさせたりする。関わり方は黒沢と同様自然である。澤に着替えさせられる黒沢は、あたかも童子のように、逃げて背後の幕に隠れたり踊り出したりと、落ち着かない。

 音楽は70年代ポップスからフュージョン、ミシェル・ポルナレフからコーヒー・ルンバなど懐かしいもの。そこに重なる踊りは、音楽に合わせていてもいなくても、自然で違和感がない。節々に決めごとがあり、物語性を感じさせるが、しかし何かを主張しよう、意図的に表現しようということは感じられない。むしろ自由な「遊戯」としての踊りだ。それなのに奇妙な存在感がある。おそらく他のどのような踊り手が踊っても、この存在感は生み出せない。この自由で「緩やかな」踊りは、なぜか私たちを惹きつける。特異な才能を持った踊り手だ。

 

●「みやびな鳩」加藤道行

    美術・構成・音響・照明:古澤栲、アートランド(武蔵小金井)、2003.3.8

 

 ミラーボールが回り、古い洋楽が流れた後、ずんぐりむっくりで短髪、髭跡が残り、眉毛の繋がった男が、赤縞のワンピース水着でゆっくり登場する。水着の背中に茶色の大きいハイヒールを一つくくりつけている。そしてゆっくりと、普通に歩き出す。下手には小さい白い木の椅子、上手には長いゴムホースが投げ出してある。背景には落書きをしてやめたようなティッシュが点々と張り付けてある。

 加藤はひとしきりうろついてから、白い椅子に向こう向きに腰掛けて、ゴムホースの端をくわえて息を吹き込み始める。力が入っている。横を向き、舞台中央へ椅子に乗ったまま移動し始める。ガタガタとぎこちなく移動し、なおもホースをくわえ続ける。向きを変え意識を集中している。この一連のプロセスで緊張感が高まってくる。ホースを椅子に絡ませて下手に立ち戻り、再び戻り、ホースをはずし、とぐろを巻くホースの前でしゃがみ込む。そして椅子を抱えて仰向け倒れていく。両足を観客側に投げ出して仰向けに、頭は少し起こして、身体に緊張を与えてうごめく。椅子に犯されるようにも見える。この緊張感は観客を惹きつけるものだった。

 その後の展開はいま一つに見えた。下手に立ち上がり、ホースの上に倒れ込んでうごめくが、背中につけたハイヒールをはずす目的が読めてしまった。ハイヒールを履いても、片足なのに「跛行」しない。背景のティッシュを無造作にはずし出すのも、緊張が持続せずユルいものになってしまった。

 白い椅子と性交するような場面は、土方巽の横になった踊りの記憶につながり美しかった。しかしすぐに椅子が中途半端に扱われ、大野一雄の愛する白い椅子のコピーにしか見えなくなった。

 冒頭から「自然な動き」への意識が見受けられたが、黒沢美香のような自然な踊りは、普通の人間には踊れない。大野一雄の自然な動きもコピーできない。それをまず自覚する必要がある。「緩やかさ」と「ユルさ」は違う。ただ、大野の弟子としてそれを間近に見ながら、あえて舞台を作り出そうする加藤は、意欲的で重要な存在だ。初めから「自然体」で踊ろうとするのではなく、まず「不自然体」で踊ることを、もっともっと経験してほしいと思った。 

2003年03月13日 13時02分18秒

 

 

「贅沢な空間」

●「銀河計画」笠井叡・伊藤キム、2002.10.12

東京・世田谷パブリックシアター

                志賀 信夫

 

 

 観客席中心より下手通路から、誰かが舞台に駆け上がる。白塗り裸身の伊藤キムだ。半分しゃがんで客席に向かってポーズをとり、すぐに照明が落ちる。

 

 うっすらと照明が人の姿を照らしだす。キムが消えたあたりで笠井叡が長袖Tシャツにズボン姿でゆっくりと動き、次第にスポットが明るくなるなか、足下にキムが倒れているのが見える。無音の中、笠井はキムを蹴りながら動き、踊る。次第に早くなり、キムを飛び越えたりしながら周囲で踊り出す。舞台は部分的に明るくなり、笠井は縦横に動き回る。やがて音楽が始まると緩やかにキムが動き出す。筋肉の緊張が感じられる舞踏らしい動き。かつての舞踏修行が伝わるような、駱駝館などと共通する動きが混じるが、身体の隅々に気を配り、どう見えるかを意識しているゆっくりとした動き。次第に動きは速まるが、笠井はその周囲で激しく踊り出す。しかしキムが自分の踊りに集中しているのに対し、笠井は絡もうとするあまり、キムのソロの周りをじゃれているように見えるときがある。

 

 音楽が変わると、光の線が舞台の両袖側が間口から奥に向かってせばまるように輝く。天井から床まで線が張られ、それを下からの照明が照らしているのだ。ちょうど舞台奥に向かって三角の形で遠近が強調されている。この光る線の左右の柱の内側で2人は踊り回るが、次第にそのラインを侵犯して奥や装置の脇に入ったりしながら、それぞれ自由に踊り、ときおり中央などで出会って絡むような仕草を見せる。

 

 暗くなり、コスミックなシンセサイザーの音楽に変わると、舞台天井に光が輝く。その輝く光は棒状で緩やかに降りてくる。姿を現すと、その正体は、1辺2mほどの立方体。各辺は蛍光管で構成されており、光る枠組みだ。それが闇の中に輝き、地上10cmほどで舞台中央に浮かぶ。手前に2人は並び、笠井が衣装を脱ぎ捨てる。裸体の2人は立方体の内側に入り、緩やかに絡みながら踊り出す。光る立方体という抽象空間に浮かび上がる裸身が果てしなく美しい。白塗りのキムと生膚の笠井のコントラスト。やがて枠から外に出て、それぞれ踊り出す。時に枠の中に入って出会い、また外に出て輝く立方体とともに踊る。笠井がふれると立方体は静かに揺れる。やがて静かに立方体は天井に消えていく。この立方体は、空間を見事に仕切り、インパクトがあって美しい仕掛けだ。地上数センチにただよい緩やかに揺れるところも感動的だ。まさに天からの光、「未知との遭遇」的イメージだ。ただ音楽までコスミックなのが少し気にかかる。他のクラシックなども定番的な音楽が多く、そこに宇宙的シンセやロックっぽい音楽が挿入されるという選曲は、いま一つインパクトに欠けた。

 

 キムが舞台両脇に消えて暗転し、笠井は舞台上で言葉を発しながら踊り続ける。舞台奥から伊藤キムが女装で登場。袖無しの白いロングのワンピースをまとっている。静かに堅い動きで、ゆっくりと舞台手前に進んできて踊る。そこに笠井が絡む。立方体の場面以降、2人の絡みに関係性が出てきている。そのうちに笠井が退場、キムは1人で踊り、次第に彼も言葉を発し出す。戯言のような意味があるような、時に観客に語りかけたりしながら、踊る。そのうち、音も2人がそれぞれしゃべっている言葉に変わる。意味のない言葉の羅列、意味があるが関係のない対話、それに対して、キムが舞台上で言葉を発して、絡みながら踊る。

 照明が変わり、笠井が登場、床に斑点上の光が当たっている。2人がそのなかで静かに時に激しく踊る。音楽の変化とともに斑点が壁、周囲に広がる。音楽が冒頭の曲になってしばらく2人の踊りが続き、照明が落ちて終わる。

 

 伊藤キムは冒頭、存在感で笠井を圧倒し、踊りの強度を見せつけた。しかし2人が絡みはじめて次第に笠井のリズムにあわせていくことで、コラボレーションが成立し始める。笠井は、先般大野一雄と踊ったときのように、緩やかな踊りを多用すれば、さらに重厚なイメージが出せたかもしれない。立方体の場面では重みが出ていた。

 とはいいながら、笠井の早い動き、激しい動きはそれはそれで面白い。何度も見ているために、少々こちらが飽きているだけだ。言葉を使う部分のみならず、2人の絡みにも、そこにいつものキムのコミカルさをさらに強調し、もっとコミックな場面を作ってもよかったかもしれない。

 

 笠井は普段の踊りの際にも不明な言葉、あるいは詩的イメージのような言葉を発するが、キムの場合は、日常語を意味なく連ねていく。後半の場面で、それぞれのこのような声、会話の録音を流し、それに対話するように、舞台でも話しながら踊る。無意味な言葉と意味ある言葉をそれぞれが交互に繰り返し、それとともに踊りの動作が変わる。時に滑稽なフレーズに観客は笑うが、2人は、言葉と踊りの関係の何かを模索しているように思えた。

 

 彼らいずれも舞踏を基盤としており、舞台で言葉を発し、時に観客に語りながら踊ったりする点も共通している。動きに独自のシャープさと優雅さがあり、それぞれがコンテンポラリーダンスの意識を持っている点でも、非常に相性がいい。

 

 先月伊藤キムはシアタートラムでのソロ公演「ふたりだけ」で、映像を多用しながらも、身体を強調した非常に優れた舞台を作り出した。舞踏的ではなく、映像の中の自分とからみ、自己と他者を見つめる実験性のある展開だったが、かつ笑いを誘い、観客を飽きさせず楽しませる舞台でもあった。

 これに対して、今回は笠井の演出ということもあり、舞踏的な踊りを中心に、2人のコラボレーションの妙を示すことができた。伊藤キムのもう一つの側面を見ることができるうえに、20歳以上違う踊り手がまったくその差を感じさせず絡み合い、舞踏の歴史とコンテンポラリーダンスへの実験が混ざり合った、贅沢な空間だった。 

2002年10月24日 13時08分19秒

 

 

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【お詫び】

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上演日と順番がバラバラになっています。

いずれ、順番を差し替えますので、それまでご容赦ください。 

2002年10月22日 13時33分35秒

 

 

「三つの変奏曲」

●イリ・キリヤンとネザーランドダンスシアターI 2002,10.12

                彩の国さいたま芸術劇場

                      志賀信夫

 

 

 この日はキリヤン振り付けで3つの作品が上演された。

 

 幕が上がると観客を驚かせるのは、舞台中央に上からぶら下がった大きな一本の木。天地3m幅5mくらいはある。よく見ると逆さにぶら下がっており、舞台から4~5m上方に枝が広がり、その上に幹、そしてさらに上に根が見える。それを上手からの光が照らして、周囲をライトがゆっくり動いて巡る。木の周りを探るよう照らしている。

 その下で、3カ所にスポットが当たっており、そこを中心に4組の男女が踊る。男女ペアの踊りが中心。ペアが入れ替わったり、4人で踊ったりと変化する。動きはアダージョ的なものからモダンダンスを崩したようなものへ変わる。音楽は冒頭は無伴奏ヴァイオリン。そして突然ジョン・ケージのプリペアードピアノ(弦に木や金属などを置いてパーカッション的に響くようにしたもの)に変わると、スポットの下の女性が音に反応して動く。抽象的な動きの感覚が伝わってくる。回転するスポットライトは曲、展開によって早さを変わる。しかし振り付けられた動きはいま一つきらめきがない感じだ。

 音楽がバッハのゴールドベルグ協奏曲に変わると、ペアで踊りが展開する。それぞれペアごとの踊りはなかなか見応えがある。しかし同じ音楽で延々と続き、少々飽きてくる。その時点で、キリヤンはこの踊りを終わらせる。この97年の作品「ウイングス・オブ・ワックス」は太陽に向かうイカロスの羽をつけた蝋(ろう)のことらしい。木を逆さにすることで、この地上が天空であり、逆転したイメージを作り出そうとしたものののようだ。

 

 次の舞台は幕が50cmほどあがっている。上手側に男性ダンサーが幕の前に不動で立っている。幕の向こうでなにやら準備をしているのが、伝わってくる。

 幕が上がる。上手(右手)奥にヴィデオがあり、奥の鏡に映像が映し出される。この踊りの制作・練習風景のようだ。舞台下手側と上手手前、奥に3つのスポット。女性1人と男性3人のダンス。衣装は女性は黒いタイツ、男性は少し光る青、紫、臙脂、緑のくすんだ上下。上手手前の男性の動きがおもしろい。当初女性と絡むが、その後、1人で舞台に横たわり、音楽に合わせ挙動する。押さえた動きで、曲のリズムに合わせて足を少しあげたり下げたり、その程度の動きが妙に引きつける。同時に上手側ではペアや三人の踊り。これも男性が抱えた女性を横たわる男性に落とすなど、独特のアレンジ。難しいことや奇妙な動きはしないが、人同士の関係の持ち方で奇妙さを案出している。ほとんど上手奥のヴィデオとは無関係に踊りが続く。音はバッハの平均律をバラバラにして、現代音楽のように、時にパーカッション的に鳴る。そのなかで組み合わせを変えて踊りが変化して展開する。途中で鏡が回転を始める。裏は黒、従って映し出されるダンサーの踊りが動く。ヴィデオの中の練習風景も回転する。

 ペア同士の踊りが続き、ライトが落ち、鏡のみならずヴィデオも回転を始める。2つの回転が妙な光景を演出する。2人が踊りを終え、鏡の裏に消えていく。光は落ち、暗い中に鏡とヴィデオのみが回転し続ける。そのまま暗くなり、幕が下りて終わる。静寂の中でのこの終演が非常に心に焼き付く。2000年のこの「クリック・ポーズ・サイレンス」はキリヤンが音と踊りを丁寧に呼応させていることが際だつ。しかしそれよりもヴィデオの最後の動きとフェードアウトが勝ってしまった印象もある。

 

 最後の踊り「詩編交響曲」はまず閉じた緞帳に光が当たる。舞台に明かりがつくと、緞帳は模様の入った紗幕で、透かして舞台が見える。上手に縦に4人、下手に横に4人、椅子に座って男性が並び、女性が舞台下手に縦に8人並ぶ。ストラヴィンスキーの音楽とともに、女性がそろって群舞する。バレエらしく飛び回るのではなく、行進のような動きの合間に、体を伸ばしたり、手足を広げたりする動きが混ざる。女性は座る男性のほうに進み、男性も立ち上がり、相互にからんで動き出す。すぐに紗幕は上がり、舞台奥にはペルシャ絨毯がいくつもかけられて、背景を埋めているのが見える。その前で、行進の動きをベースに群舞が絡む。男8人と女8人の組み合わせ。音楽が同名のストラヴィンスキーのため、強いリズムで展開する。1人が残されてソロをとり、また集団に飲み込まれたり、男女のアダージョなどが挿入されて展開する。音楽が高まり、一度切れて舞台が暗くなる。明るくなって再び踊りが始まる。そして数組ずつ男女が絨毯の背景が上がった舞台奥に消えていって終わる。縦と横、構成的に置かれた椅子と、その位置が規定する規則的な踊りの展開。それに対してリアルな絨毯の背景が音楽のエキゾチズムと重なる。現代性と古典主義(ストラヴィンスキーもすでに古典)のコラボレーションという印象が残る舞台だった。

 

 最後の作品は78年初演のもので、20年以上の差があるが、ネザーランドシアター I のダンサーたちの技術は安定して、構成された動きが、それぞれしっかりと印象に残る。最初の木のインパクトと次のヴィデオの存在感、最後の比較的オーソドクスな構成と、3つの異なったタイプの演出だが、これらをトータルに見ると、キリヤンは実験的でありながらも、観客を楽しませようとしていることがわかる。まず人を引きつけよう、それから実験的で新しいことをやろうというのが、キリヤンの姿勢であり、ダンスシアターというのは、それゆえの名称とも思えてくる。その点からすると、ポストモダン的―脱構築的―新しさはフォーサイスと似通っていながら、ピナバウシュほど演劇的ではないが、彼女の領域に踏み込める意識をもっており、ちょうど二者の中間的なスタイルということができるかもしれない。 

2002年10月17日 13時43分48秒

 

 

「大野組のトライアル」

●MAIプロジェクト、和泉舞制作、池田真弓、伊藤虹(+藤間恵梨子)、西山弘志

                   2002.9.13、目黒アスベスト館

                            志賀信夫

 

 大野一雄舞踊研究所研究生の3人による自主公演。各人30分程度ずつ自分の踊りを自ら振り付けて踊る。制作も研究生の和泉舞による。

 

 池田真弓の踊りは、最初のラテン系楽曲に載せて踊る自由な踊りがすべて。後半の椅子に座っての踊りは、何も伝わらない。楽しそうに踊ることには好感が持てるが、彼女個人の独自な表現には至らなかった。

 

 伊藤虹は大野門下すでに10年を経過する。プロのベリーダンサーとして活動する藤間が、冒頭ピアソラの曲に乗せて一人踊る場面は、ワンピースで女性性を強調し、自分固有の踊りの魅力を生かした巧みなダンス。次の場面でこれに絡む伊藤虹は、日本の漁夫のような衣装で首に太い赤いロープを巻き付けている。自由な藤間を虹はロープで緊縛して踊る。個性的な音楽に合わせて謡のような声を発する虹もおもしろい。縄から逃れようとする藤間を後に虹は踊り、そして二人が絡む。ここの絡み方は、エロティックではなく、個人を抑えたいいデュオとなり、二人が四つん這いのまま前に進もうとする場面は美しい。もつれたまま倒れ伏している二人。音楽が変わり、二人は立ち上がり、愛を確かめあうように、花火に見入る。

 自由な美女をとらえる男と、愛が成就するという物語が明確すぎて、観客には次の展開を期待させながらも、わかりやすいハッピーエンドに帰してしまい、その点には不満が残る。観客に何を残すか。何らかの「問いかけ」があったほうが印象的だ。二人が楽しいハッピーエンドに向かってしまうときに、観客はそれで満足できるのか。満足できるためには、それまでに、相当のカタストロフが必要だ。力量の感じられる虹だけに、少し物語を作りすぎたという印象だった。

 

 西山弘志。冒頭、無伴奏の激しいアルトサックスの叫び。そのインパクトとともに踊り出す。だが激しくはない。緩やか、静かに裸の上に黒いスーツと赤いマフラーで踊る。その肉体に音楽に呼応する緊張がある。そして次第に踊りも音楽のように、激しく厳しくなっていく。しかし、むやみに激しくは踊らない。抑制したなかに、阿部薫のサックスの感情を呼吸している。この場面が一番印象的だ。

 次の場はドイツ語の宗教音楽のような音、ビョークの少年のような声のなか、上着を脱ぎ捨てて上半身は赤いマフラーだけで、緩やかに踊り続ける。正面中央手前で後ろを向き、背中を見せて踊る場面は、その背中の力強さ、背中の皺、傷、筋肉の線などが、なんとも美しく迫ってくる。

 音楽のリズムが変わり、同じビョークの声、スイングジャズのリズムのなかで踊るが、一瞬戸惑いが伝わる。次の動きを考える瞬間。しかしラスト、決意を持って、非常にゆっくりと舞台を上手から下手に横切っていく姿に、舞踏らしい力の入り方を見いだした。

 

 大野一雄がかつて元気だったころ、音楽に合わせて自由に、既成の舞踊の世界を壊しながら、自由にかつ美しく踊っていたスタイル、つまりかつての大野のきれいな踊りの部分、西山はそのことを意識した、いい踊りだった。 

2002年10月11日 13時10分38秒

 

 

「白州のある一日」

●ダンス白州:えーりじゅん、高井富子ほか

             2002 8.14, 水曜日

                志賀信夫

 

 白州といえば舞踏のメッカの一つといえるほどになっている。舞踏家田中泯が、山梨県北巨摩郡白州町に拠点を築き、ここで農場を作り、「舞塾」で研究生たちと共同生活を行いながら、土に根ざした生活のなかで、舞踏活動を行ってきた。そして1988年から毎年「白州アートキャンプ」として、舞踏、ダンスのみならず音楽、美術、文学などさまざまなジャンルのアーティストを集めて、発表の場を提供してきた。現在は、2001年から「ダンス白州」としてたダンスフェスティバルを行っている。今回の会期は8月1日からで、9日から18日には、「山の舞台」と「森の舞台」を中心に、舞踊家たちが集まった。

 

■「児戯に始まる美しさ」

 えーりじゅん;山の舞台、14:00

 山の舞台は受付から徒歩20分近い山の中。小川にかけられた丸太の橋を二つ越えて、林の中を上ること10分。林の中に山林に張り出すように、板を張ってコールタールで防水した舞台がある。8m×15mくらいか。座席は丸太で作ってある。当初30名ほどの観客。

 

 観客席右隅に座っていたえーりがパンツを脱ぐと白い褌姿。上手から舞台に上り手前1mほどを下手にゆっくり横切り、中央やや左で舞台中に向かう。その先にはピンクのビニールプール。上手手前、舞台奥行きからすると中央右寄りに、1mほどの石のサークルとそのなかに二つの紙風船。下手の舞台の端、奥行き中央あたりの木に唐草模様の赤い着物がかかる。

 えーりはそのままゆっくりと足元を確かめながらビニールプールに向かう。古くなった舞台がへこみきしむ。その感触を味わうかのようだ。そのままプールに入り込む。ピンクのビニールプールには水が張ってある。小さい一人用ビニールプールのなかで、横向き、右を下に丸くなる。プールがパンパンに張って、たくましい大人の裸体が入り込んだピンクのプールが対照的だ。そのままゆっくりと時計周りに回転する。観客席から顔は見えない。ただ足、太股、腕などが見える。そのまま回転することしばし。止まってゆるやかに体を起こす。その口には紙のくるくる笛。それをピーと吹くと、紙の筒がのび、情けない音がする。まっすぐ延びずに自分の顔に向かって延びる。吹きながらプールの中で回転する。大の大人がビニールプールにはまり、ピーピー笛を児戯のように吹き鳴らす姿の滑稽さには、まず赤子に戻ろうという彼の踊りの意識が立ち現れる。

 

 しばらくこれを繰り返して立ち上がる。びっしょりのふんどし、延ばした布をはたくと水しぶきが観客席近くまであがる。虹がかかるような水の軌跡。ゆっくりと立ち上がるとプールに至ったルートを逆にたどり、舞台の手前に少し来る。笛を口にくわえてピーピー吹きながら。途中、舞台中心左で下手に向かう。木にかけた着物を手にしてプールに戻る。中に漬けてばしゃばしゃとして、十分濡らして、はたく。また水しぶきが手前まで飛び散る。光に映えて美しい。そして身にまとう。濡れた着物がまとわりつく感触が伝わってくる。その状態で再び笛をくわえて、ピーピー吹きながら、中心やや左をまっすぐ観客席に向かう。次第に笛は強くなる。顔の筋肉も緊張し、どんどん膨れきった表情になる。力の限りピーピー笛を吹く。顔と上半身に青筋が立つ。そのまま舞台を越えて、観客席に2列目まで入り込み、渾身の力で笛を吹く。そして踊りは終わる。

 

 この舞台はタールの焦げ茶の黄の舞台にピンクのプール、赤い着物という色彩のコントラスト、そして子どものプールとおもちゃと、鍛えられた男の裸身という二つの強いコントラストがあり、そのまま踊りのテーマになっている。私たちの中にある、子どもへ帰る、幼児化する、母の元へといった志向、子ども帰りの思いが踊りの出発点だ。プールは母の胎内にも感じられる。そのなかで蠢いて、ちょうど胎内で回転するようだ。笛は唯一発せられる自分の声、赤子の泣き声と同様のものだ。濡れた羊水を飛び散らせ、自分が立ち上がっていく。いわば一つの誕生に向かう。赤い着物は母の着物、そして「女」へ仮装するの自己の象徴だ。女装で女、さらに母を模することも、男の執着の一つ。その声にならない叫び、を力一杯吹くピーピー笛で表現し、観客に自己をぶつけてくる。その力、叫びと肉体に観客は戸惑いながらも圧倒され、50人以上に増えた観客は熱のこもった拍手を送っていた。いい舞台だった。

 

■「年輪と挑戦」

  高井富子 with 大石宏子、西山弘志、加藤道行

 

 森の舞台の作品。受付の脇には、テント場があり、その前に人々が集まる空間がある。以前は栗の木が茂っていたが、切られたところに、白い布で帆船のように、帆が貼られ、風を目に見せる。その奥にしばらく行くと、林の間にきちんと組まれた舞台がある。屋外で十分な広さ、20m×30mくらいか、その前に丸太で観客席がある。

 

 その下に観客が思い思いの場所に集まっていると、脇の水場から、泥だらけの男が立ち上がる。手に乾燥花の花瓶を持って、静かに静かに立つ。そして腰を落として、まさに舞踏の緩やかな動きで、テント下の中心の方に向かってくる。途中、さびたワゴンテーブルの上に花瓶を置き、膝をついてさらにゆるゆると運ぶ。中心に来るとワゴンを離れ、焚き火の後の炭の土の上でのたうち踊る。

 逞しくも整ってもいない身体。しかし自分の動きに集中して緊張感が漂い、それが観客に伝わってくる。素朴な踊りを、わずかな小道具で十分に魅力的に表現することができた加藤道行の舞台だった。

 

 次の西山弘志は道を隔てた鶏小屋から走り込んでくる。そして優美な動きで、舞うように踊る。しばらく踊り続けると、ぐるぐると駆け回り始める、そして音楽とともにその動きは止まる。再び踊り出すと思ったが、そこで終わった。バレエではないが、身体を緩やかにかつ優美に動かそうという意志が伝わってくる踊りだった。

 

 場所を移して森の舞台の脇の林の中、奥に立つシュミーズ姿の女性。手前に三味線を弾く男。その音とともに踊りが始まる。静かに手前に向かってきて、三味線の前で踊りが展開する。しばらく立って踊り続けるが、その動きには女性的な所作と日本的な所作が混じる。土の上に倒れて静かに踊り続ける。三味線が終わり、テープとアフリカの小楽器カリンバの音によって、さまざまに動き踊り続けて終わる。

 

 最後は森の舞台の上。下手の端から頭に大きな布袋を乗せて杖をついた老女が舞台に上がってくる。そして静かに中央に進む。ぼろぼろになった女性、疲れた老女がそこで静かに動き舞う。頭の上に置いた布袋を開き、中身を広げ出す。枯れた草花や諸々は自分の家財道具。一切を抱えてきた難民のイメージ。すると空から矢が降り、舞台に突き刺さる。そのなかで再び静かに舞い、そして上手に去っていく。さまよえる民、老女を描き出した作品。老女を踊る高井富子の存在感はなかなかなものだ。

 

 高井富子は60年代から大野一雄、土方巽らと踊ってきた。特に1967年、前衛俳人加藤郁乎の句集『形而情学』をタイトルとした作品は、石の衣装、鋏の衣装を身にまとったもので、舞踏史に残る傑作の一つだ。近年もそのシリーズで踊り続けて、最近はパリやオーストラリアでも積極的に公演を行っている。その舞踏の歴史が、彼女の踊り、振る舞いに表れる。

 

 3人の若手はいずれも大野一雄の研究生で、高井がそれを舞台に立てようと尽力した。若手は三者三様で、泥臭く―言葉通り―舞踏的な舞踏にこだわる加藤道行と、大野一雄の優美さを踊ろうとする西山弘志と、女性のスタンスで舞踏に緩やかに取り組む大石宏子、このそれぞれが、好感の持てる舞台だった。そしてトリとなる高井富子の力、舞踏のご意見番ともいえる彼女の踊りは、この森の舞台に重みを与えていた。できれば最後に全員がなんらかの形で絡む姿も見たかったと思う。 

2002年10月11日 13時07分47秒

 

 

「眠れる森」

●大野一雄・慶人舞踏公演、2002.9.20、東京両国シアターカイ

                   志賀 信夫

 

 夏のダンス・舞踏フェスティバルのJADE2002では、土方メモリアルと題して、土方巽に捧げる2日間のシンポジウム、映像上映、舞踏が行われた(新宿パークタワーホール)。

 

  初日は、唐十郎、四谷シモン(予定は種村季弘)、土方夫人元藤あき子によるシンポジウムと、「肉体の叛乱」の上映、そして元藤、大野慶人らによる舞踏「大鴉」が行われた。シンポジウムでは途中で「鎌鼬」を撮った細江英公も話に加わった。

 「大鴉」はポオの作品によるイメージ。中心奥の台に乗り頭にカラスをつけて赤い長い衣装で踊る元藤に対して、下手より白い衣装でいつものように静かに登場し、緩やかに直線上を動き、後半、奥の幕に向かって静かに立つ慶人が印象的だった。後半、元藤の白い衣装に土方巽が映し出されるの情景も、目に焼き付いた。終って元藤によれば、かつて土方と踊ったときも、このような投影をしたそうだ。

 

 二日目は、慶人、笠井叡に舞踊評論家山野博大が聞く形でのシンポ、「バラ色ダンス」の上映、そして大野一雄と笠井による舞踏「病める舞姫」だった。

 「病める舞姫」は土方の著書でもあり、彼の姉が投影されているといわれる。冒頭、笠井は客席中央から白い女装で登場、70年代の笠井を思わせる静かな舞踏を踊る。大野は車椅子に乗ったまま笠井に押されて登場し、手だけを動かして「手の舞い」を踊り、笠井は周囲を巡りながら、次第に激しく踊り出す。大野も足を動かそうとしながら、笠井を時に気にしつつも、静かに自分の世界で踊る。笠井は大野をいたわりつつ、次第に彼も自分の世界に入っていく。大野と拮抗して、重なりあうイメージを作りながら踊れるのは、笠井くらいだろう。

 

 そして一カ月、大野一雄は両国の舞台に立った。

 ロビーに入ると2mほどの竹を持った人々が思い思いのポーズをとり、動かずに立っている。大野舞踏研究所の研究生たちだ。年齢性別もさまざまな人たちが、モノトーンの服で竹を持って立ち、動かない。印象的な試みだが、狭いロビーと通路なので、人が増えるに従って埋もれてしまった印象がある。暗くしてそれぞれにスポットを当てるとか、劇場前の広い空間も利用するなどを試みてもよかったかもしれない。

 

 中に入ると照明が明るく、舞台全面を照らしている。客席の照明も落としていない。そこに大野慶人が登場。白い衣装で静かに動く。彼の好む宇宙的、幻想的なイメージのシンセサイザー音楽。緩やかな足取りでの登場から、腰を落としたポーズ、首を切る所作など定番だが、いつもより少し重たげに緩やかに回ったりする動きに、新しい動きなどを模索しようという意図が感じられた。

 そして両袖の椅子に乗り、四人の男女に持ち上げられて大野一雄が登場する。この椅子は緑をペンキで白く塗った、研究所でいつも大野が座るもの。新潟県十日町、中川幸夫が降らせたチューリップ20万本の下で踊ったときも、この椅子だった。大野は音楽を探りながら、手の踊り。この日はほとんど右手だけだ。何かをつかみ懐に入れ、再び出して空に放つ。そのときに手首をクルクルと、取っ手をねじるような動きが加わった。左手はほとんど椅子の袖を握ったまま。音楽への反応もいつもより弱い。

 

 そこに男女が登場。舞台中心よりやや上手側奥にアルコーブのような出入り口がこの劇場には切ってある。その上手側から黒い服の男が高い背もたれの椅子を掲げて登場。下手側からは白いドレスの外国人女性がパラソルを持って登場し、ともに舞台中央の大野一雄に近づいてくる。ゆっくりと音楽とともに近づき、大野の両側、彼がが反応するあたりでしばらく留まり、音楽の終わりとともに戻っていく。次の曲では白いドレスの白いボールを持った女性が上手側から登場しゆらゆらと踊り、下手からは浴衣のような和装のお下げの女性がサッカーボールを持って登場する。男と女、白と黒、和と洋の対照というイメージ。音楽の終わりとともに立ち去る。大野一雄はそのまま手で踊り続ける。

 

 静かな音楽が続く、そこに舞台奥のアルコーブから静かに人の群れが登場する。それぞれ手に布を握りしめて、前にきて、大野一雄を取り巻くようにそれぞれが立つ。10数名の男女が思い思いのポーズをして、前で両手に握った布を絞り込むポーズ。異なるポーズでほとんど動かずに、雑巾を絞り込むように力を込める。ダンサーらしいな人、演劇的な表情を持つ人、日本舞踊の素養がありそうな人や素人っぽい人などさまざまだ。

 

 大野一雄の研究生たちは、年齢も20そこそこから70過ぎまで多用で、バックボーンも色々だ。それがそのまま出ているような感じで興味深かった。この林のように立つ人々を大野一雄は興味深げに眺め、音楽に合わせて同様に踊っていたが、次第に静かになっていく。音楽は変わって鳴り続けるが、大野はすっかり静かになって動かない。不動のままの大野と周囲に立つ人々、音楽が終り人々が静かに戻っていくが、大野はそのまま。眠っているのだ。静かな音楽に少し睡魔を感じ始めていた観客もいたかもしれない。みんなの前、舞台でお気に入りの椅子に座り、一人眠り続ける。

 

 わずかにしか動けない大野一雄だが、ここには眠る大野一雄がいた。しかし見ている人々は見つめ続ける。それぞれどのような思いを持ったのか。動かないことも舞踏であることを、かつて同じ舞台で大野慶人は再現して見せた。20分以上不動のその踊りは、土方巽の「舞踏とは命がけで立つ屍体」というテーゼを証明しようとした。だが、ここでは、そのような意識を持つわけではなく、自然に動かない。眠っているだけだ。しかし呼吸が感じられる。これは希有な体験だろう。やがて大野慶人が登場して、研究生たちに大野を運ばせた。

 

 しかし、観客の大半は、もっと眠っているままを見ていたかったと思う。眠り続ける大野一雄を30分、1時間と眺めて、さまざまに思いをはせ、静かな時間を持つ、これは本当の意味で観客参加かもしれない。考えてみると、舞台はそのように人と時間を共有することができる場でもある。もちろん「踊りを見せる」ということからすると、簡単なことではない。ジョン・ケージの意図的に弾かないピアノでもない。しかし難解なものを理解しようとして苦しみながら見るより、素直に「ああ眠っている」「眠らせておこう」「それを見ていよう」という「参加」もあるだろう。このまま眠らせ続けて、予定がある人、飽きた人、あきれた人などが少しずつ帰っていき、最後に大野一雄が残る、そんなエンディングができたら、素晴らしかったかもしれない。

 かつてある落語家が高談で眠り、客はそれをじっと見守り、起きるのを待ったというが、大野一雄に対しては、起きるのを待つのではなく、眠らせたまま、それ自体を見続けるという営為が可能だろう。そのときにようやく初めて、入り口で立っていた「竹」になった人々、舞台の上で「林」と化した人々、そして見に来た人々が、大野一雄を囲む林、森となって一体になるのかもしれない。 

2002年10月09日 14時20分02秒

 

 

「シニアの巧みな使い方」

●ネザーランド・ダンスシアターIII イリ・キリヤン振付・演出

               2002.9.23、彩の国さいたま芸術劇場

                          志賀 信夫

 

 ネザーランド・ダンスシアターは、3つのグループに分かれている。I は30代、IIは20代、IIIは40代以上。日本公演では、このIIIのシニアと年齢層のダンサーたちの踊りが、魅力的だといわれてきた。

 今回はI、II、IIIともに来日し、それぞれいくつかの演目を踊る。この日はIIIの初日で、30分程度の3つの作品を上演した。

 

・最初の「ア・ウェイ・ア・ローン」は、一昨年日本で発表された作品。右側にスクリーンのような白い幕が下がっている。そこに2人の男と1人の女が踊る姿が映し出され、時折静止する。同時に、左側で3人が踊る。映像の人物と同じ人間が踊る設定。ストップ・モーションを巧みに使った映像の男女に引きつけられながら、生身の踊りと相互に見る、その対照が印象的だ。次の場面、左側に黒幕が下がる。右側の踊り手の映像は、床に張り付いたようなものに変わる。座っていても、動いていても、どこか奇妙。日常を裏切った動き。それが、時折ストップ映像となり目に飛び込んでくる。他者にコントロールされた動き。映像として非常におもしろい。ダンサーたちを上から撮っているということが次第に判明する。

 

 そのうちに、幕からダンサーが出て、映像のこちらがわで、映像の人物と絡むように踊り出す。白幕の後ろにもダンサーが入り、シルエットとなり、映像やこちら側の人物と絡む。光源に近づけば大きく、離れれば小さくなる影の効果を利用して、コミカルな動き。ショーダンスのようでもあり、観客から笑いが漏れる。この外と内と映像のコラボレーションが終わり、黒幕があがると、その向こうでダンサーが踊っていて、それを上から撮影していたという種明かしがされる。

 その影だった場所で、3人が踊る。次第に前に来て、舞台の縁に横に並んで座る。静かな音楽の中、お互いに手を動かし、相手の口を押さえ、目を押さえるという、「見ざる聞かざる」状態を演じる。そして手は下ろされ、静かに終わる。3人の関係から、人間の「優しさ」のようなものが伝わる。この「触れあう」ポーズが感じさせるのか。なんともいえない叙情が後味のように残っている。

 

 プロジェクターやヴィデオを、「ハイテク」と思わせずにリアルに使いながら、特殊技術ゆえのメリットを十分に生かしている。身体性と、「見せる」ということに重きを置いて、ハイテクをあくまで道具として巧みに使っているからだ。映像のヴァーチャルな身体が本物の身体とうまくコラボレーションを行っている。そして、生の身体だからこそ伝わるものを感じ取ってほしい、という思いが、最後に舞台縁までダンサーを出させたのだろう。

 

・2つ目の「フェン・タイム・テイクス・タイム」は新作。開演前から幕が上がり、舞台に白い砂が撒かれて小さな起伏があり、それが照明に浮かび上がって見えるような感じ。背景は黒幕。これが静かに上がり始めると、さらに後ろの白い幕が見えてくる。そこに右側(上手)を指さす巨大な人間の影が写る。上手袖からバックライトで影を作っている。

 ベートーベンの「月光」の途中を練習する音が響く。冒頭の有名なテーマではないうえに、断片化されているのですぐにはわからないような音で、現代音楽かと思わせる。音楽は次第に「月光」の形をなすが、すると音が加工されて、枯れたジョン・ケージのプリペアードピアノのような抽象的な音になっていく。

 

 影となっていた人の指先が、こちらに突き出るように見えた。そう見えるのは、影で向こうの身体が透かし見えるからだった。影が動き、指先だけでなく顔、体がおぼろげに影の向こうに見える。影は横顔で透かし見える顔と身体は正面。それが重なって、」ちょうど立体派的に横顔と正面が合体したピカソの顔のようだ。その手は白い幕をつかむ。襞が寄り、陰影がついて、きれいなドレープになる。バックライトが動き、正面にのびていた影が移動し、このダンサーは右端にいる。中心にダンサーが登場し、背後から布を掴み、襞が寄る。天井まで張られたこの白い幕にきれいなドレープがつく。ダンサーはあくまでこのカーテンの向こうで、襞を作りながら動いている。これが何とも美しい。

 

 白幕が上がり始める。床に砂が敷き詰められたように見えていたのは、白い布だった。皺が砂山のように見えていた。床の白布がすべて引っ張られて上に帆のようになって上がっていく。人の身体が幕の下から見えるところで上昇は止まる。上半身を隠しながらダンサーは襞を作り続ける。ドレープと陰影の美に枯れた「月光」が響いている。そして布は上がり、ダンサーのペアが布のこちら側に来て、踊り続ける。ゆがんだ「月光」の一楽章の終わりとともに、舞台が終わった印象を与える。

 しかし、男女のペアは無音のなか、緩やかな踊りを続ける。しばらくすると、上がっていた白布が下がってくる。床に溜まり重なって山を築きながら、すべて下がって吊す器具も下がってくる。裏からスタッフがひもを外し、布の山が一直線に舞台を横切って築かれる。その手前でダンサーは踊り続けて、静かに終わる。

 

 ダンサーの踊り自体は、特に新しいものではない。しかし布を非常に効果的に使っており、下に張られたところから上に昇っていって、再び下がってきて、ほどかれるという展開が見せる。そして何よりも、天井に届く舞台いっぱいに広がった布の描く襞、ドレープの陰影が美しい。ダンサーが布に絡んで踊ると、襞が寄ってすばらしい陰影を作る。踊りより、すっかりその襞に魅せられてしまった。ダンサーはあくまで一つの要素。むしろダンサーと布の作り出すコラボレーションといったほうがいいかもしれない。ダンサーの動きが布のドレープという形で広がり、舞台いっぱいに大きく見せる。魅力的な舞台だった。

 

・昨年も演じられた「ハッピー・バースディ」は最後。3演目合わせて、「トリプティコン」と名付けられた。昨年は唯一キリヤンの作品でありながら、楽しいながらも、肩すかしのような気分も味わったが、今回見て、十分再見に耐える作品であることがわかった。

 

 舞台上に横長のロココっぽいテーブル。そこに5人の中世の衣裳を着た男女が座る。赤い扇子をそれぞれ持つ。前回は白い羽毛扇だったかもしれない。後ろのスクリーンには洋館の部屋の中にいる、同じメンバー(実際は1人違った)が同じ姿で同じテーブルにつく。モーツァルトに合わせて、実物のダンサーたち、映像のダンサーたちが、扇子を降って踊る。コミカルな動きに笑いが洩れる。曲の切れ目、1人が「私の誕生日」と言って「ハッピー・バースディ」を歌う。映像ではテーブルに羽毛が敷かれ、羽毛の扇の動きで羽毛が舞う。映像は変わり、舞台上の女性1人が2枚の鏡の前、羽毛の舞う中に踊る場面。また、舞台の男女が他の人に挨拶して背後に消えると、映像の中に登場する。1組は、女性と男性が追いかけっこをし、男性が甲冑を着て悪漢と戦う。1組はベッドの上で、セックスを連想させる、ハイスピードの非常に滑稽な動きをする。いずれも舞台に戻ってきて、服に羽毛を付けている。これらが繰り広げられて、最初の扇の踊りが再現されて終わる。

 

 踊りらしい部分は、映像のなかの女性ダンサーのソロくらいで、あとは音楽に合わせた滑稽な動きのコメディのよう。映像と入れ替わるというアイデアはそれほど新しくないが、モーツァルトの曲に当時の服装で演じられることで、滑稽さをさらに際立たせる。ダンスという枠をもはや超えてしまっているが、本当におかしく楽しいので、観客は十分満足するだろう。

 

 ネザーランドシアターIIIのシニアダンサーたち。十分鍛えられた身体、踊りの技術も会得した。しかし年とともに衰えていき、かつてのようには動けない。素早い動きはできず、身体の強さを失った。キリヤンは、そんな衰えつつある身体でも、振付とアイデア次第で素晴らしく見せて、観客を楽しませることができることを照明している。そして、年齢が高いからこそ醸し出す人間愛のような感じさせ、同時に実験的な舞台を作り続けている。 

2002年10月02日 13時30分59秒

 

 

「キリヤン美学の真骨頂」

●「27'52'」イリ・キリヤン振付・演出、ネザーランドダンスシアター II

       2002.9.28、彩の国さいたま芸術劇場

           志賀 信夫

 

 この日は20代が中心のネザーランド II の舞台で20~30分の作品が3つ上演された。「ドリーム・プレイ」はヨハン・イングルの振付で、「春の祭典」を音楽に使い、ありふれた三角関係を描くというもの。スカートのような衣裳のためか、男性が重たく感じた。板張りの壁が立ててあり、隠れていた女性ダンサーがその中から再登場する場面のみが印象的で、音楽に踊らされているという感じだった。「シンプル・シングス」はハンス・ファン・マーネンの振付のパ・ドゥ・ドゥー集で、特に新しさのないモダンパレエといったものだった。

 しかしキリヤンは違った。タイトルの「27'52''」はこれが演じられる時間を示している。ジョン・ケージの「4'33''」が4分33秒間弾かないピアノ曲をやったように、何らかの試みを行うと思ったが、キリヤンはケージほど観念的ではない形で、舞台を解体した。

 

 冒頭、ダンサーたちの練習風景から始まる。これはローザスの「ドラミング」にも見られる始まりだが、5人のダンサーたちが身体を慣らすような動きをするなか、黄色いシャツのマルテ・クルマンナッハがソロのリフレインをする。この時点で、前の2作と動きが全然違い、目が離せない。振付でこれほど違うのか、と吃驚する。照明がかなり低く一部は傾けて落とされているが、それ以外はシンプルな装置に白い床と黒い奧。特にマルテの動きに観客は吸い寄せられる。ダンサーが退場し暗転して舞台が始まる。

 

 舞台中ほどに白い高さ3mほどの短い幕が降りてくる。ダンサーが2人登場し、ともに顔を幕の後ろに隠したまましばらく踊る。て男女ペアもしくは女性1人と男性2人が登場し踊る。全体で3組のペア。動きがシャープで微妙に新しい。音楽は現代音楽で切れのいい音が入る。前2作と同じダンサーとは思えない動き。下がっていた照明が少し動き、効果的に人を照らし、少しずつ上がっていく。気がつくと上手奧にいるダンサーが床を持ち上げている。床に貼ったシートを持ち上げているのだ。奇妙なことをする、と思わせるが、下手前のダンサーもシートを持ち上げ、奥のダンサーはその下に潜る。手前から奧に同じ4枚の幕が張られて、緩やかに上がったり下がったりする。下がった幕を持ち上げる者、シートをめくる者、潜る者。彼らは踊り、他のペアなどが踊っているときに、この作業をする。

 

 今度は床が動き出す。シートは細長い帯状になっていて、舞台に4枚ほどが敷き詰められていたようだ。幕も同じ素材で不透明、厚めのビニールシート。ダンサーが踊っているシートも引っぱられ、乗ったまま異動していく。奇妙な光景だ。次第に白のシートがすべて巻き取られ、黒い床でダンサーが踊り出す。上の白い幕は時折上下に移動する。すると今度こそ床と思われていた、黒いシートがさらにめくられ、裏の白が露呈する。白と黒の世界で床が移動する。ここで上手奧で持ち上げられたシートに立ったまま包まれるダンサーは、シートのフォルムと相まって、抽象美術作品のように美しい。

 

 緩やかななかに時間を切り裂くような音が混ざる。それにダンサーは敏感に反応する。ピッタリ合っている。自由に見える動きが、実は非常に算されていることがわかる。本来確固たる地面が揺らぎ、背景、空も変化する。その中で踊る。あるいは踊り手自ら大地を変化させる。このアプローチは、まさしく空間の解体、脱構築だ。ペアの踊りがその中で淡々と進む美しさ。動きが早くキレがいい。「ドリーム・プレイ」での鈍重さがない。

 

 すべての幕が上がり、1組みのペアが上半身裸になって踊る。絡んでもエロティックさを排除して、むしろ「美」のために奉仕する美しさ、そのための裸身だ。黒いシートが裏返されて白くめくられていく。そして、その中にダンサーたちは横たわって包まれていく。ダンサーたちが包まれて音も静かになり、舞台が終ったと思わせた瞬間、目の前を白いもの素早くよぎる。高く上がっていた白い幕が音を立てて落ちたのだ。奥から「ドン」「ドン」「ドン」「ドン」と4枚落ちて、床にぐちゃっと横たわる。この衝撃。涙が出るほど美しい。舞台の解体をここで成し遂げた。使った素材はおそらく単なるダンス用の床シート。それを裏返し、動かし、はがし、幕にして、最後に落とすことで、舞台を解体する。解体と脱構築は過剰な仕掛けをしなくても、シンプルに行えることを立証した。白と黒のモノトーンにダンサーのシャツだけがそれぞれ原色で動き、次第に自ら舞台を壊していく。非常に美的、美学的な舞台、今年見たなかで、最も衝撃的な舞台で、キリヤンの凄さを感じさせるものだった。 

2002年09月30日 13時57分17秒

 

 

「伸びやかな動きで圧倒」

●「フル〈ダ〉ブル―三つの誘惑」レニ・バッソ、北村明子振付、2002.8.25

              新宿・パークタワーホール、JADE2002の一環

                        志賀信夫

 

 冒頭、コンピュータによるノイズ的サウンドが響く。それぞれ半間分9枚の磨りガラスの扉が入ったパネルが舞台を横切って置かれている。ここに抽象的なイメージが映し出される。次第に拡大されると、アナログの測定器の針と測定器部分、別の映像が拡大されるとオープンリールデッキのテープ。音を示すイメージとして針の動きとテープの回転、それは同時に時間の経過も示しているようだ。9枚のガラス扉にシルエットが映る。中心に背の高い長髪の女性の姿。1つおきに5つのシルエットが踊り出す。中心の人物は磨りガラスに触れているため姿が半分見えるが、離れているとよく見えずシルエットもわずか。光の切り替えで影がはっきりしたり、また見えなくなったりする。やがてその扉がいくつか開き、踊り手が登場。主に舞台手前に2人。残りはガラスの背後でシルエット、あるいは開いたままの扉から姿がかいま見える。

 

 踊りは1人の動きをもう1人が模倣する。その模倣するダンサーに対して、長身の女性―よくみると男性―が、指導のような、ちょっかいのような絡みをかける。ちょっかい役が次第に入れ変わり、相互に絡んでいく。伝言ゲームのように踊りを伝えていくが、その「ちょっかい」によって踊りが変化していく。振付の際に、少しずつ違って伝わっていくことを逆手にとった踊り。同じ動きを扉の背後で行ったり、異なった踊りが重なったり。ガラス扉は3枚1組で、横に引き扉として動く。1つを開放したり、半分だけ開いたりする。その間も照明は変化し、背後からのシルエットがどんどん変わる。動きが早くなって、手前の踊り手が増えて複雑化・錯綜してくると暗転。暗転の間にまんなかの3枚1組の扉が、少し奥に下げられ、空間ができる。左―下手―の扉が開放され、向こう側で北村が踊る。伝えられた振りの元である、複雑な北村流の踊り。

 

 彼女の踊りは柔軟である。両手、両足、自由にのびるだけ限界までのび、即座に戻り、絶えず動きを止めない。流れる動きで、全体としては、円というよりはメビウスの輪のような、動きの先が連関していって、一筆書きを描くように、身体の動きがつながっている動きを続ける。かなりゆがんだ、あるいは無理な体勢、奇妙な位置に体を置く一瞬もあるが、それを一連の流れの中に入れて、バランスを取り戻す。首、頭、すべて素早く激しく動く。このように自在に動けるダンサーは稀だ。アクロバティックともいえる身体の柔らかい動きが、独特のリズムのなかで続き、踊りが輝く。小柄で軽やかな身体は、踊ると非常にダイナミックだ。あまりに際立っているために、本来はかなりうまいはずの他のダンサーたちを見ていても、その差が気になってしまう。

 北村も他のダンサーたちも、舞台の中ではほとんど同格に扱われ、時には扉の前に出て、時には後ろで踊り続ける。後半、ダンサーが少しずつ増える。当初女性と思われた長身のダンサーと、後半出てきた、手足の長い女性のダンサーが、なかでは印象的だった。

 

 一見、映像を使った新しいダンスを目指すように見える。だが、それに頼るのではない、北村自身が紡ぎ出す独特の踊りがここにはある。これは本当に素晴らしい。この踊りをグループで見せようとしているのだが、それが完成するのはまだ先のような気がする。 

2002年09月26日 21時07分44秒

 

 

「笑いと前衛の時代」

●「ザ・グレート・エスケープ」コンドルズ公演、近藤良平振付・演出、

                2002.9.15、新宿シアターアプル

                         志賀信夫

 

 幕が上がる前、出演者がギターを持って舞台に上がり、『北の国から』などを歌いながらコントを飛ばす。「客を退屈させまい」というサービス精神が旺盛だ。いつものようにパロディ的広告の映像で始まり、コンドルズのタイトルテーマに移る。映像にも力を入れるのが、コンドルズの特徴。タイトルの「ザ・グレート・エスケープ」を示す映画「大脱走」のテーマ、飛行船の映像などが展開し、「コンドルズ日本国大脱走」と巨大ロゴで締める。

 

 さて、全員による最初のダンスが始まる。16名の学生服姿の男たちの激しい群舞がハードロックに乗せて展開する。スピーディで歯切れののいい踊りが、男だけのこのダンスグループの売り。ダンス専門ではないメンバーが多いのに、これは常に迫力があり、冒頭とラストはこれで締める。ここに数人ずつの踊りと、コントが絡む。スポットライトを浴びて「何か」と期待すると、何も起こらず「はずす」などのギャグ、レスラー出身の太ったオクダサトシも笑わせるが、のみならず踊りの掛け合いで笑いを誘う。今回は囚人服を着た男たちが登場して、脱走しようというコントが物語として中心にあった。コントは主に小林顕昨が書いているが、彼は劇団宇宙レコードに所属しており、東京公演のみに参加する長塚圭史は阿佐ヶ谷スパイダースを主宰し最近活躍中、他のダンスグループに客演するメンバーも多く、自由に活動している。このように他での活動がコンドルズの舞台にも生かされるているようだ。南米の登場人物による人形劇、映像作家のアニメーション、登場人物紹介の映像などが挟まり、時にメンバーが伴奏したりと盛りだくさん。「大脱走」などのテーマは、あくまでコントやダンスのきっかけを作っているにすぎない。

 

 踊りによるコントには「なるほどこんなことができるのか」と思わせることがあり、実験的なダンスといえるだろう。特筆すべきは、近藤良平の動きで、自由な疾走感がある。手足を鋭角に動かす鋭い動きから素早い回転、ジャンプなどへつながり、そこからは、近藤の「踊りたい」という気持ちと自然に体が動くという生来のダンサーの体質が伝わってくる。彼の振付は、エンターテイメント性がありながら、人のやっていないある種の「前衛」を目指している。

 今回はこれまでより構成をシンプルにして、ライティングに凝り、踊りの息も合って、完成度は高まったが、かつての破天荒さは感じられなかった。見る側が慣れてしまったということもあるだろう。また「幽霊」のコントは、客に絡む「客いじり」が多すぎて途中から飽きた。しかし常に、「次に何が起こるか」「またみたい」と思わせるステージだ。

 

 コンドルズとともに現在人気も高く、「見て楽しい」「見るべき価値がある」と思わせるダンスには、伊藤キムと「輝く未来」、そして井出茂太による「イデビヤン・クルー」がある。この3者の共通点は「笑い」である。いずれも、自身の踊りで「笑い」を誘い、かつ振付・構成にも笑わせるモチーフを「侵入」させる。そこにコンテンポラリーダンスの鋭さ、抽象性が重なる。「笑い」は「通俗」や「単なるエンターテインメント」と評されがちだが、この3人は同時に「新しさ」「ダンスの革新」を求めている。彼らによって、現在のダンスは、「笑いと前衛の時代」に入ったといえるのかもしれない。 

2002年09月24日 14時00分25秒

 

 

幻惑される時間

 「吸血姫」唐十郎作、金盾進演出、新宿梁山泊公演、2002.9.12

      六本木旧三河台中学校特設紫龍テント

                             志賀信夫

 

 唐十郎の旧作を昨年、新宿梁山泊は新宿・落合でアトリエ公演として行った。そのときに、まさに「唐の作品が甦った」という印象をもった。唐のかつての劇団「状況劇場:紅テント」を感じることができる芝居だった。

 そして今回、梁山泊本公演として地方を回り、金念願の花園神社テント公演も8月に果たし、9月には場所を変えて小学校の校庭のテントで公演を行った。

 この公演は、アトリエ公演をパワーアップして、唐十郎と金盾進のいい部分が見事に現れた傑作となった。

 

 冒頭、戦前の大ヒット映画「愛染かつら」のヒロインの看護婦から借りた「高石かつ枝」と、働く「藍染病院」のレビュー的な舞台に、かつての状況劇場の怪優大久保鷹が絡み、献血、売血から次第に奇妙な状態があぶり出されてくる。大久保の演技は最近、唐組や流山児事務所の芝居、柄本明との2人芝居などで甦り、巧みではないハチャメチャ芝居が、舞台に風穴を空けている。浮浪者的マントの怪人が似合う大久保は、病院の若先生を演じる小檜山洋一、高石役の梶村ともみと絡み、危なさを舞台に展開する。三人ともいい「アク」が出ていたが、やはり大久保鷹の独特さにはかなわない。

 そして一幕の後半、近藤結宥花が登場する。彼女は以前から梁山泊のヒロインで、唐組に客演したときも光っていたが、今回はまさに輝くヒロインそのものだった。看護婦姿で人力車に乗り登場するところから、清純さ、はかなさ、そして後半の娼婦、近親相姦と血、死に絡むところまで見事に演じきっており、はっきりと通る声、独特の強さと可憐さで観客を魅了した。アトリエ公演の時も素晴らしかったが、今回はさらに際立った演技だった。

 ヒーローに当たる肥後守役は前回、唐組の稲荷卓央が好演したが、今回トリプルキャストで、12日は原昇が演じた。力演だったが前回の稲荷には及ばなかった。芸能プロ花形役を12日は梁山泊のベテラン黒沼弘己が演じたが、この役は元々唐十郎が演じたもので、熱演したが「毒」は描けなかった。ダブルキャストで地方公演に登場した唐組の鳥山昌克の演技が見たかった。

 

 物語は複雑で語りがたいが、近年ストーリーと展開がすっきりしてきた唐組の芝居に対して、かつての状況劇場で演じられていたような、何が出てきてどう筋につながってくるのかわからない、観客を幻惑する芝居に、再び出会うことができた。考えてみると、当時、何度も同じ芝居に通ったのは、1回では容易にわからない複雑な展開を解明したかったのと、それに巻き込まれて、あれよあれよと結末に入り込んでいる自分が、どうしてかくも感動しているのか、それが知りたかったからだろう。

 今回まさに同じ感動に自分がはまっていた。ラストの展開を明かさないために詳細は書かないが、いつの間にか、戦前戦後、震災などの時間と、上野下町と江ノ島、大陸などの場所を行き来して、自分がどこにいるのか、いまがいつなのか迷いながら、混沌を抱いたままラストに運ばれる、その快感を、ぜひとも一度は味わってほしい。 

2002年09月13日 17時43分51秒

 

 

「ハムレット」へのアプローチ

「ハムレット」演出ペーター・シュタイン、国際チェーホフ演劇祭参加作品

       出演ロシア人俳優、 2002.9.10、新国立劇場

                            志賀信夫

 

 新国立劇場中劇場の本来の観客席前方の位置に正方形のステージを作り、四方から観客席が取り囲むようにすり鉢状に席を配置。観客席後方からも俳優が登場し、間や脇の通路などを使って縦横に動き回る。この空間構成はなかなか素晴らしい。ステージ上はシンプルで、時に応じて簡単なセット、ベッドなどが置かれる。

 役者は現代の服装で、王のガウンなどで、わずかに時代性や権威を示している。登場の時に宮廷入りらしい音楽が流れるが、以外は時代を感じさせるもの要素が少ない。物語内容と時代はシェイクスピアの設定したとおりである。

 

 物語は先代の父王が亡くなり母が叔父と結婚したところで、それを嘆くハムレットを中心に始まる。先王の亡霊は客席後方から登場、青白い姿で声がPAを通して響くが、荘厳さは感じられない。

 その言葉で父王が、耳から毒を注がれて叔父に殺されたことを知るハムレットは、アルトサックスを吹き、従僕2人のエレキギターに乗ってビートルズの曲で登場し、狂乱を演じる。楽器でロックを奏でながらという場面に新しさを出そうとしたのだろうが、70年代ならまだしも今の時代にインパクトはない。狂乱場面にはさらにトップレスの女性とハムレットの絡みも登場するが、とってつけたようにしか見えないのは、すでに誰かが作ってしまっている、という既視感があるからだ。

 

 旅役者に毒殺芝居を王の前で演じさせる場面は、この正方形のステージに照明とバラの花びらを載せて、舞台として演じさせ、周りに椅子を置き王たちが観賞するという趣向。この舞台は、墓堀りの場面では墓となり、オフィーリアの兄とハムレットの決闘の場面の舞台になりと、使い方が非常に巧みだ。

 特に墓堀りとハムレットとの対話の場面は、真ん中の蓋が開いて、中に降りた墓堀人が土を掘り出すなど、楽しめる趣向となっている。舞台をもう一つの舞台として、あるいは決闘リング、墓として使うという機能の変化に魅せられる。また、舞台の中に舞台を作るという入れ子構造は、この芝居の構造に非常に合っている。

 

 役者はいずれも巧みで、ロシア演劇界の力を感じさせ、なかでもハムレット役ミノーロフと母ガートルード役クプチェンコがいい。ハムレットが母を追求する際に、セックスを思わせる近親相姦的場面が演じられ、この場面はもう少し深めてほしかった。この場面でも2人の演技はよかったが、特にクプチェンコは一級だった。夫とハムレットの狭間にある女性の苦悩がよく演じられている。ミノーロフはサックスを吹いたり巧みなのだが、そのぶん性格が軽く移り、悩む場面も上手いのだがいま一つリアリティがなかった。旅芸人役のイエトゥシュという老優の演技は、その存在感からくる力が観客に伝わってきた。しかし父王を彼が演じたら、もっと荘厳さを与えられたのではないかとも思う。

 

 このように舞台作りはかなり凝っており、役者の演技も一級なのだが、響いてこない。一つにはハムレットの物語、苦悩と悲劇の物語という要素が、新しい要素・趣向で薄れてしまった。同時に、このロックなどの趣向は、現代からみると新しくは見えず、その点で魅せられない。四角い舞台とその広いパースペクティブも観客を巻き込むまでには至らず、「味付け」としか感じられない。役者が通路を通るときに、予め照明が照らされてしまい、「突然観客席から登場する」などの意外性がない。

 

 また近親相姦的、性的モチーフを入れるなら、それにもっとこだわるなり、なんらかの焦点の絞り方が必要だったと思う。ロシア人俳優の演技がオーソドクスに上手すぎたのも、舞台に力動性を与えられなかった原因かもしれない。もっとも演出家シュタインは、新しさによって、何らかの「解体」「脱構築」などを目指しているのではないのだろう。では何を求めたのか、それは伝わってこなかったように思う。 

2002年09月12日 13時46分21秒

 

 

大野一雄は踊り続ける

                        志賀信夫(2000年5月)

 

 94歳の舞踏家大野一雄は、昨年秋の公演で2度転び、年末に腰が腫れて何度か入院していた。立つことがかなり困難で、弟子たちの稽古でも椅子に座ったまま。昨年春からアトリエ公演を時折行ってきていたが、「今年は無理か」と思う。しかし息子の舞踏家大野慶人の言葉が耳に残る。「大野一雄は死ぬまで踊ります」 大野とともに舞踏を作り出した土方巽は死の床で、起きあがって数時間、主に手で踊り続けた。大野父子もその場にいた。

 

 1977年、大野一雄が『ラ・アルヘンチーナ頌』で71歳の再デビューを果たした姿は、鍛えられた身体に美しい翳りを纏い、あまりに鮮烈でいまも目の奥に焼き付く。それからほぼ半世紀、日本各地と世界で踊り続けてきた。80年代後半から身体は衰えて激しさが少なくなり、「優しさ」「愛」の漂う踊りが中心になった。しかし初めて見た者も感動させる力がある。年に数回は大きい公演を行い精力的に活動し、大野一雄にしか踊れない世界を作ってきた。倒れたことを知った人々は口々に「具合は」と案じた。そしてこの2月、スタッフの強力なサポートもあり、待望のアトリエ公演が再会された。

 

 大野慶人につかまって入ってくる。胴を両手で支えられて踊り始めた。足を動かし少しずつ移動しながら、手、腕を中心に踊りが始まる。しばらくして一人で踊る。10分。横にある椅子に倒れ込み、腰掛け、そのまま踊り続ける。立ち上がろうとしながら、椅子で手、足で踊っている。床に転がって踊り、支えられ立ち上がり踊り続ける。音楽が変わると新しい世界に入っていく。それをまさに固唾を呑んで見つめ続ける。気がつくとほとんどの人の眼から涙が溢れている。

 

 3月に再びアトリエ公演。入り口の戸を開ける彼の手、そこから舞踏が始った。体調は前と同じように見える。しかし立てない。一人では立って踊れない。椅子の上で踊っている。手、腕の動きが大半だ。独特に指を捩った手、その右手で何かをつかみ、前に伸ばして手の中のものを宙に放つ。ふわりと見えないそれを視線が追う。何を浮かべているのか。戯れるようにそれを繰り返す。自分の中の何かを空に解放するかのようだ。見るものはそれぞれ何かを宙に認める。それを追いながら、ここには舞踏そのものがある、と思った。舞踏は、西洋のバレエ・ダンスの鍛えた身体が技術の極限を示す、というものとは対極にある。強い美しい身体も踊る。しかし普通の身体、あたりまえの身体、あなたの身体、怠惰な身体も舞踏を踊る。踊らなくてもいい。普通に歩くことも、動かなくても舞踏になる。身体を意識する、何かを感じとることから舞踏が始まる。大野一雄は幕間のヴィデオ上映の間も自分の映像、音楽とともに椅子の上で手で踊り続ける。そのシルエットの美しさは。

 

 大野一雄の動けない身体は、これまでの踊りすべてを削ぎ落として、いま踊れる最大限の動きを踊っている。同じようなリフレインがこれほどに異なって見るものの眼に入るものか。今回も涙。この涙は踊りの感動の涙、舞踏の本体を見た驚きの涙、動けない大野一雄への涙、そして少しでも動ける大野一雄への涙。そして色々なものが混じり合っている。94歳だからでは決してない。踊りの本質に果てしなく近づいている舞踏家の作り出す世界への感動なのだ。おそらく大野一雄は最後まで踊り続ける。それを見続けることが、いまの私の何よりも大事な行為(アクシオン)である。 

2002年09月10日 13時45分47秒